フットボール批評オンライン 無料公開記事
小社主催の「サッカー本大賞」では、4名の選考委員がその年に発売されたサッカー関連書(漫画をのぞく)を対象に受賞作品を選定。選考委員の一人でもあるフランス文化研究者、作家、文芸批評家の陣野俊史氏にサッカーにまつわるあれやこれやに思いを巡らせてもらう連載「ゲームの外側」第6回は、フランス代表キャプテンのキリアン・エムバペについて。と、訳すのに半日を費やした「エムバペ規則」について。
(文:陣野俊史)
代表のキャプテンといえば、古いところから言うと、プラティニやジダン……

【写真:Getty Images】
仕事でキリアン・エムバペの本を読んでいる。
そもそも「エムバペ」なのか「ムバペ」なのか「ムバッペ」なのか、表記すら揺れている。
日本だと「エムボマ」というカメルーン人選手がいたいせいか、「エムバペ」と表記することが多いように感じる。むろん、エムバペもカメルーン人の血が入っている。
たしかTV5(フランスの放送局)で放送された番組だったと思うが(「特派員報告」というタイトル)、なかなかテレビインタビューに顔を出さないエムバペをようやく摑まえて(番組の依頼から2年近く経っていたらしい)、司会者が最初に発した質問は、「あなたの名前はどう発音するの?」だった。
「エムバペ? ムバペ? ムバッペ? それともエムバッペ?」と畳みかける女性司会者に対して、エムバペは、「ムバペが名前に近い音だけれど、どれでもいいよ」と答えていた(私が聞き取った範囲での理解)。
かくて表記は混迷を深めるばかり……。いちおう、エムバペ、でいこうか。
読んでいる本は『エムバペ革命』というタイトルで、彼の自伝でもなければ評伝でもない。
ジャーナリストが書いたエムバペ論、というあたりが正しいが、別に硬い本でもない。彼の出現が何を起こしたのか、というあたりに中心がある。
むろんさまざまなことが言われているのだが、ひとつだけはっきり書けば、彼のようなフランス代表のキャプテンがこれまでまったくやってこなかったことを、エムバペはやっている、ということだ。
代表のキャプテンといえば、古いところから言うと、プラティニやジダン、近いところではパトリス・エブラやウーゴ・ロリスがいる。
キャプテンの記者会見でもイライラしっぱなしだったエブラ、喋りはじめると雰囲気を陰鬱なものに変えてしまうロリス……ってそんな話ではなく、以上の4人に一貫していたのは、政治性を滲ませないという一点。
フランス代表キャプテンが、政治権力を批判したり(どの国であれ)、警察を正面切って罵倒したりすれば、まあ、小さな騒ぎは避けられない。だからジダンもプラティニも黙っていた。影響力の大きさを考えて。
だが、キリアンは違う、というのがその本の根底にある。
厳しい躾のあと、彼は自分の「政治的発言」を辞さなくなった。
たとえば、2023年6月にナエルという名前の17歳の少年が、警察官の職務質問にあい、乗っていた車をいったんは停めたものの、数センチ再発進させて、射殺された事件があったのだが、そのすぐあとにも、エムバペは自身のXで言葉を発した。
ここではその文章は引用しないが、こんな「キャプテン」はいなかったのだ。
この本の細部はいつか書いたり訳したりすることがあるかもしれないので開陳するわけにもいかないが、かなり面白い箇所があったので、ひとつだけ紹介したい。
小さなエピソードだけれど、半日くらいこの箇所は何を言っているのだろう、と頭を悩ませたので、悩んだぶんをちょっとここで書き留めて、なるほどね、と読者の方々に納得してほしい、という下心もありつつ、以下、引用してみる。原書の40頁あたりを、いったん日本語に。
キリアンは社会に溶け込み、社会には到るところで彼の刻印が見出せる。彼は社会をインスパイアするのだ。エムバペの降臨は、「キリアン」という名に思わぬ幸せをもたらした。
国立統計経済研究所(INSEE)によれば、2007年以来、減少傾向にあった彼の名前は、2018年に再び流行した。
もっともつけられた名前トップ100にランクインした。この年はトマよりも上の順位だった!
名前が流行したせいで、国民教育に……そしてアカデミー・フランセーズに入ることになった。
じっさい、子どもたちを正しい綴り字を教える目的のためならば、どうしてサッカー選手の人気を使わない手があろうか?
ヴァル・ドワーズ県の女性教師は、「エムバペ規則」というものを編み出した。
彼女曰く、BとPの前にMを(Nではなく)書きます、と。M・B・PでエムバペMbappéの規則。ついでに言えば、たとえば「チャンピオンchampion」はこの法則に合致する。「しかしでは《オルニカー》は何処に?」に含まれる7つの等位接続詞については自制しておこう。
以上、引用は終わり。
エムバペがフランスの社会の隅々まで入りこんでいることを証明しようとする一節なのだが、ここでひっかかるのが「エムバペ規則」。いったいなんじゃ? と思う。
小学校の先生が考えた「規則」らしいのだが……とあれこれ、考え込んでしまった。
で、結論。これは「綴り字法」の説明なのだ、と(まあ、そう書いてある)。
フランスの小学校でも「正しい綴り字」の書き方を教える授業はあるだろう(日本だと漢字の練習みたいな)。で、フランス語の単語を教えるときに、たとえば「チャンピオン」と書くときに(フランス語読みは「シャンピオン」だが……)、championと綴るのだが、pの前って何だっけ、mだっけ、nだっけ、と子どもたちは迷うのだろう(推測)。
そこで適用されるのが「エムバペ規則」。Bとpの前はmですよ、ということ。だからM・B・Pの順番ですよ、綴りは、と先生は教えるわけ。エムバペ、と覚えましょう、となる。
なんか例外が多そうな気もするが、まあ、いいことにする。エムバペの浸透している例なのだから。
あ、それから引用した文章の最後のところ、さっぱりわからないでしょう? 「しかしでは《オルニカー》はどこに?」って何だろうか、と思う。じつはこれも私もわからなかった。
不明を恥じたいところだが、これって原文は、Mais où est donc Ornicar ? となっていて、7つある等位接続詞(日本語で言うと、「しかし」「あるいは」「そして」「したがって」「なぜなら」など)をフランス語でひとつの文章にしてくっつけた、いわば接続詞暗記法(らしい、フランス人に聞いた……)。
これも一種の綴り方の暗記法なんだろうな、と納得した次第。
こういうの、日本語にもあっただろうか。
そして、引用箇所で何を著者は書いているかというと、「しかし」とか「だが」とか反論したいのだが、まあ、それは自制しておこう、くらいのことかと思われる。
(文:陣野俊史)
陣野俊史(じんの・としふみ)
1961年生まれ、長崎県長崎市出身。フランス文化研究者、作家、文芸批評家。サッカーに関する著書に、『フットボール・エクスプロージョン!』(白水社)、『フットボール都市論』(青土社)、『サッカーと人種差別』(文春新書)、『ジダン研究』(カンゼン)、共訳書に『ジダン』(白水社)、『フーリガンの社会学』(文庫クセジュ)がある。その他のジャンルの著書に、『じゃがたら』『ヒップホップ・ジャパン』『渋さ知らズ』『フランス暴動』『ザ・ブルーハーツ』『テロルの伝説 桐山襲烈伝』『泥海』(以上、河出書房新社)、『戦争へ、文学へ』(集英社)、『魂の声をあげる 現代史としてのラップ・フランセ』(アプレミディ)など。
【関連記事】
『サッカー本大賞』読者投票! あなたが選ぶ2024年、最も面白かったサッカー本は?
ティエリ・アンリ フランス代表エスポワールの「監督」辞任に思うこと 【ゲームの外側 第1回】
彼女たちのサッカーが「ありのままに」存在しているからこそ、この小説は書かれた。『ひとでなし』書評【ゲームの外側 第2回】
ワールドカップの勝敗だけでは、あの国アルジェリアのサッカー熱は計測できない『不屈の魂』書評【ゲームの外側 第4回】
ほんの少しだけピースタにノリきれない自分がいた。忘れられない…。トラスタには愛着がある【ゲームの外側 第5回】
【了】