【後編はこちらから】 | 【サッカー批評issue56】掲載
ジーコを訪ねてリオに向かう
人はなかなか本音を話さないものだ――。特に多くの人間から取材を受けてきた、“取材慣れ”した人間に話を聞く時は注意が必要である。過去にどこかで話した内容をただ繰り返すことも少なくない。彼らには、きちんと向き合い、繰り返し会い、しつこく話を聞かなければならない。
ぼくが初めてジーコに長時間話を聞いたのは今から17年前の1995年1月、母国ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに作ったサッカーセンター開幕式の数日前のことだった。そして、ジーコに日本、サッカーについて語って貰うという連載を『週刊ポスト』という雑誌で始めた。
毎週2ページ30回の連載は好評で、続篇を作ることになった。ブラジルへは都合三度訪れ、その度に数日間集中して話を聞いた。
その後、日本代表監督になってからは、ぼくは月刊誌『プレジデント』で彼を追いかける連載を持った。W杯前、会いに行くと「お前、もう聞くことはないだろ」と冗談まじりに言われたことがあった。
「代表監督の間は話せないことがあるだろう。辞めたらあなたのいるところ、世界中どこにでも行くから、また話を聞かせてくれ」
とぼくは返した。
約束通り、イスタンブール、モスクワ、リオで二度、彼の節目ごとに話を聞いた。やはり各方面に気を遣う必要があった代表監督時代とは会話の濃度が違った。
ぼくがブラジルで生活した経験があり、ポルトガル語を理解することもあるだろう、時に酒を一緒に飲みながら、様々な話をしてくれた。その中には「2006年W杯の日本代表には腐ったミカンがいた」と発言し、話題となった取材も含まれている。日本人ジャーナリストとして、最も彼の話を聞いてきたという自負がある。
そのぼくでさえ、ジーコがイラク代表監督に就任したという報道を見た時は冗談かと思った。W杯の惨敗を日本で酷評されていることを彼は分かっている。名誉挽回には結果を出すしかない。そのため、日本でも注目される欧州チャンピオンズリーグに出場できるクラブを指揮することにこだわっていた。だから、どうしてイラクなのだ――ジーコに問い質したかった。
ジーコに連絡をとると、状況は少々複雑だった。イラクはアジア三次予選初戦のホームゲームで観客がピッチに乱入したことで、FIFAから、国内での試合を禁じられていた。アウェイはもちろんだが、ホームの試合は近隣のカタールで行っていた。イラクに住居を置かず、試合や合宿の度に出かける形となっていた。
「リオまで来てくれれば幾らでも話をするよ」
マレーシアで行われるW杯最終予選抽選に出席した後、ブラジルに帰国するというので、ぼくはリオまで会いに行くことになった。