韓国の選手と同じように国歌を聴くと決断した
韓国の李明博大統領が竹島に上陸したのは8月10日、2012年ロンドン五輪男子サッカー3位決定戦・日本対韓国戦の当日のできごとだった。この政治的背景もあり、人々の注目が集まる中、カーディフの地で大一番がキックオフされた。両者の意地とプライドが激しくぶつかりあった死闘は最終的に韓国が2-0で勝利。悲願の銅メダルを手に入れた。
ところが、勝利の直後、MF朴鐘佑(釜山)が「独島は我々の領土」とハングルで書かれた横断幕を掲げ、オリンピック委員会が調査に乗り出す事態に発展する。日本人初の韓国五輪代表フィジカルコーチとしてピッチの上にいた池田誠剛はこの一部始終をどのように見ていたのか。韓国に渡った経緯、代表での仕事とともに話を聞いた。
――池田さんと韓国サッカー界との関わりはどのように始まったんですか。
「最初の仕事は2007年11月、釜山アイパークから臨時フィジカルコーチのオファーでした。Kリーグはプレーオフに出られないと10月でシーズンが終了します。11~2月までオフシーズンというのはあまりにも長すぎるので、フィジカルコンディションをどう維持するかが重要課題になります。そんな時、かつて釜山に所属していた安貞桓(引退)か、柳相鉄(大田監督)が、横浜F・マリノス時代に縁のあった僕のことを紹介したんでしょう。『プレシーズンキャンプを見てほしい』との依頼で、ヘッドコーチの金判坤さんから僕に連絡がありました。その前段階として(洪)明甫さんとも、Jリーグでプレーしていた2000年頃に知り合い、ずっと交流をしてきた。最初のきっかけはそれですね」
――韓国のフィジカルトレーニングの印象とその後の経緯は?
「いざ行ってみると、1000m×10本など、素走りが多めでしたね。練習もパターン化されていて、どこか旧態依然としていました。練習の量や頻度は日本の比ではないし、徹底して選手に刷り込むので、韓国の選手は技術もあるし、長い距離のボールも蹴れる。でも、フレキシブルにリアクションしていく判断力は身についていませんでした。そこで僕はボールを使った状況判断の伴うフィジカルメニューを積極的に取り入れたんです。日本でイビチャ・オシムさんが植えつけたものと発想は同じ。選手たちにとってはそれが新鮮に映ったんでしょうね。年が明けて黄善洪(浦項監督)が監督になり、『続けて欲しい』と依頼されましたが、浦和との契約もあったので4月に帰国しました」
――韓国は2002年日韓W杯でフース・ヒディング監督が指揮を執り、その後、ポルトガル人のウンベルト・コエリョ監督、オランダ人のピム・ファーベク監督も代表を率いました。こうした経緯からフィジカルコンディションニングの知識も入ってきていたのではないでしょうか?
「韓国人はベーシックなところは崩さない。食文化も変えないし、アイデンティティも維持する。不易流行のような傾向が強いんですよ。もちろんオランダサッカーの影響もありましたが、『これ以上、オランダのやり方が入ってくると韓国の良さがなくなる』とある時点でシャットアウトしたようです。そのことがフィジカルコンディションニングの立ち遅れに多少なりとも影響があったと思います」