小社主催の「サッカー本大賞」では、4名の選考委員がその年に発売されたサッカー関連書(実用書、漫画をのぞく)を対象に受賞作品を決定。このコーナー『書架へのロングパス』では、季刊誌『フットボール批評』の連載を転載する。
『アーセン・ヴェンゲル自伝 赤と白、わが人生』
(ワニブックス:刊)
著者:アーセン・ヴェンゲル
翻訳:三好幸詞
定価:1870円(1700円+税)
頁数:279頁
アーセナルで22年間も監督を続けた、あのアーセン・ヴェンゲルの自伝。
物書きをなりわいとしていない、いわゆる有名人の自伝には二種類がある。主人公となる有名人の話を聞く対話者がいて、その人に向かって当人が人生を語り、対話者が次に構成者となって、「自伝」ができあがるパターン。これは自伝ではないという人もいるかもしれないが、私は、その対話者がどれほどその有名人のことを知り尽くしているか、尊敬しているかによって、このタイプの「自伝」は成否が分かれると思う。
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もう一つは、有名人その人が筆を執り、実人生を誰の手も借りずに語り尽くすタイプの、完全無欠の意味での「自伝」。ヴェンゲルはたぶん後者だろう。自分で最初から最後まで書いている。どうしてそんなことが断言できるかって? 文体が、私たちが想定しているヴェンゲルの人柄(思慮深く、頑固で、厳格、ときどきユーモア)に近いからである。もしこれを第三者が代筆しているならば、その人はヴェンゲル以上にヴェンゲルに精通した人だろう。
「赤と白、わが人生」と副題がついているとおり、ヴェンゲルは赤と白のユニフォームをまとったチームの監督を務めてきた。確かにそのとおりで、アーセナル以外にも、ナンシー、モナコ、名古屋グランパスは、赤を基調とした(そしてグランパス以外は、白を配した)ユニフォームだ。
こうした自伝の例にもれず、時系列に沿ってヴェンゲルの人生が振り返られる。1949年、アルザスの小さな村ドゥトレンハイムに生まれる。両親は地元の人々に愛された食堂を経営した。小さい頃からボールを蹴り始めたものの、有名クラブに入り適切な指導を受ける、といった経験とは無縁に育った。それでも偶然の重なりから、RCストラスブールで選手としての第一歩を踏み出す。孤独だった、とヴェンゲルは書く。だが孤独は「啓示」だった、とも。「サッカーへの情熱がある限り、私はどんな場所でも、何の交流がなくても、そして情愛のぬくもりがなくとも生きて行ける、そうわかったのである」(78頁)。ひどい経験をする。それを人生の単なる一コマとしてやり過ごすのではなく、哲学的に思索する、そんな態度こそヴェンゲルの特質なのだ。
そして、現役引退後は、若くして監督に就任する。ナンシーでは、「敗北の苦痛と共に生きる術」を身につけ、「サッカーは生死にかかわる問題」だと知った。モナコでは、のちの名選手たちと出会う。リベリアの怪人ジョージ・ウェアをはじめ、ティエリ・アンリ、リリアン・テュラム、エマニュエル・プティ、ユーリ・ジョルカエフ……のちのフランス代表、そしてアーセナルでも活躍した、きらめく星のような選手たち。選手のパスの一本から点数からする独自の評価メソッドを開発し、モナコは快進撃を続ける。だが1993年、突然サッカー界の闇の部分が前景化する。八百長事件。審判や選手の買収が露見し、ヴェンゲルがもっとも鋭く立ち向かった相手マルセイユは醜聞の淵に沈んだ。いまでもこの件を語るのはつらい、とヴェンゲルは書いている。だからこそ、日本へ、名古屋へとヴェンゲルは移動する。しかし、名古屋での日々はページ数にして18頁に過ぎない。仕方ないか、在任期間は2年に満たないから。
そしてアーセナルへ。書物のおよそ半分はアーセナルでの日々に費やされている。「アーセナルは私にすべてをもたらし、私自身も自分の時間、全エネルギー、すべての情熱を22年にわたってクラブに捧げることになった。つまるところアーセナルは私の情熱そのものだった。また、後から振り返ればストラスブールからグランパスに至るまで、私が過ごしてきた時間は、ある意味この挑戦を受けて立つための助走だった」(160頁)
そう、アーセナルこそ我が人生、なのである。このとき、私たち読者は、Arséne Wengerという彼の名前を、なぜフランス語の読み通り、アルセーヌ・ヴァンジェと読まないのか、を理解するのだ。アルセーヌではなくアーセンと読むのは、それがアーセナルと音として重なっているからなのだった(推測)。アルテタのファンもぜひ一読を。
(文:陣野俊史)
陣野俊史(じんの・としふみ)
1961年生まれ。文芸批評家、作家、フランス語圏文学研究者。現在、立教大学大学院特任教授。サッカーに関わる著書は、『フットボール・エクスプロージョン!』(白水社)、『フットボール都市論』(青土社)、『サッカーと人種差別』(文春新書)、共訳書に『ジダン』(白水社)、『フーリガンの社会学』(文庫クセジュ)。V・ファーレン長崎を遠くから応援する日々。