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Jリーグ 4年前

内田篤人が実現させた2つの望み。理想の引退、10年前に描いていたプランは?【英国人の視点】

内田篤人は今年8月、約15年に及ぶ選手キャリアの幕を下ろした。19歳から日本代表でプレーし、鹿島アントラーズの3連覇に貢献。ドイツのシャルケでは日本人として初めてUEFAチャンピオンズリーグ準決勝の舞台に立った。偉大な足跡を残して後進の道切り拓いた内田だが、海外挑戦する直前には理想の引退について語っていた。(文:ショーン・キャロル)

text by ショーン・キャロル photo by Getty Images

内田篤人引退の感傷

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【写真:Getty Images】

 選手が引退する時はもちろん寂しい。とりわけ、8月末にスパイクを脱いだ内田篤人には感傷が漂っているのが感じられた。

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 まだ32歳、内田自身も含めた誰もがもっとキャリアを続けてほしいと望んでいただろう。しかし、最終的には負傷によって約15年間のキャリアに幕を下ろすことになった。そのため、すべての選手の引退にいつも伴う回想と称賛に加えて、ある種の「もし~だったら」という感覚も生じていた。

 それでも、17歳だった2006年に鹿島アントラーズでデビューを飾って以来、内田が非常に多くのことを成し遂げてきた事実に変わりはない。クラブと代表チームの両方で成功を収めると同時に、海外での日本人選手に対する印象を変え、若い選手たちがJリーグから欧州へ渡る道筋をはるかに容易なものとする上でも非常に重要な役割を果たした。

 私が内田に初めてインタビューを行ったのは最初の鹿島在籍時代、奇しくも彼の22歳の誕生日である2010年3月27日のことだった。現役を引退した今、当時の彼の言葉がどう聞こえるのか、改めてその時の会話を聞き直してみた。

 当時、内田のドイツ移籍が近づいているという噂が盛んに出ていた。具体的な移籍の見通しについては何も語ろうとはしなかったものの、どこかの時点で海外に挑戦したいという思いは明確にしていた。もっとも、謙虚な彼はその時の自分がマンチェスター・ユナイテッドなどのようなビッグクラブでプレーできる選手だとは思わないとも話していた。

日本代表で最後にプレーしたのは…

 だがそれから1年あまり後には、内田はチャンピオンズリーグ準決勝の舞台で、7万4000人の観客の中でそのユナイテッドと戦うことになっていた。シャルケは2試合合計1-6での敗退に終わったとはいえ、準決勝進出に至るまでの道のりは、内田が着実に踏み出した欧州での最初のシーズンを締めくくるのにふさわしいものだった。

 その後も活躍を続けた内田はシャルケのキープレーヤーの一人になるとともに、日本代表でも右サイドバックのファーストチョイスとなり、2011年アジアカップ優勝に続いて2014年ブラジルワールドカップでも全3試合出場を果たした。だがその後は負傷に苛まれる時期が始まり、代表チームメートの吉田麻也や長友佑都、長谷部誠ほどには欧州に長く定着することができなかった。

 日本代表に最後に招集されたのは、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の初陣となった2015年3月。JALチャレンジカップのウズベキスタン戦が最後の出場となった。5-1の勝利を収めた試合のハーフタイムに太田宏介と交代した時点で、これがサムライブルーで内田の姿を見ることができる最後の機会になったとは誰も考えていなかった。通算74のキャップ数をさらに伸ばし、次の世代の国際舞台への適応を助けることができなかったのは残念だ。

内田篤人が果たした役割

 内田がドレッシングルーム内でのリーダーとしてチームにもたらす影響は、2018年に鹿島に復帰した際にも示された。負傷のため決勝には参加できなかったとはいえ、クラブ初のAFCチャンピオンズリーグ優勝のタイトル獲得にも重要な役割を果たした。

 キャリアを通して通算ゴール数は11点。決して得点力のある選手ではなかったが、この大会の準決勝でのゴールはおそらく最も重要な1点となった。水原三星ブルーウィングスとの1stレグの93分に内田が挙げたゴールにより、鹿島は3-2のアドバンテージで2ndレグを迎えることができた。

 鹿島は内田と再契約を交わした時、欧州の最高レベルで戦ってきた彼の経験を活かしてほしいと述べていた。まさにその部分こそが、彼が日本のサッカーに残した足跡として記憶されていくことになりそうだ。

 過去にも小野伸二や中田英寿、中村俊輔らの選手たちが欧州サッカー界でインパクトを残していたが、内田は川島永嗣や吉田、長友、長谷部、本田圭佑、香川真司、岡崎慎司などとともに、日本の選手たちにも欧州トップレベルのリーグで活躍できる力があることを証明して世界への門を大きくこじ開けた世代の一人だった。

 こういった選手たちの成功の結果として、いまや欧州のクラブは食野亮太郎、板倉滉、藤本寛也など実力が未知数だった若手選手にもチャンスを与えているし、橋本拳人や室屋成、鈴木武蔵などのJリーガーたちも日本代表のレギュラーを勝ち取る前に欧州移籍を実現させることができた。シャルケへ移籍する時点ですでに日本代表で31試合に出場していた内田とは異なっている部分だ。

10年前に語っていた2つの望み

 最後に、2010年のインタビューを振り返ってみてもうひとつ印象的だったのは、キャリアを通して何を実現したいかという質問に対する返答だった。彼は2つの目標を口にしていた。まず「みんなに惜しまれながら引退したい」ということ。もうひとつは家族と一緒に田舎に住みたいということだった(引退会見で子供の幼稚園の送り迎えが楽しみだと話していたのも同じ思いだろう)。

 おそらくは本来望んでいた時期より少し早まったとしても、彼のその2つ目の望みがようやく実現できるのであれば非常に喜ばしいことだ。引退発表後の周囲の反応やメディア報道を見れば、1つ目の願いも叶えられたことは間違いない。コロナ禍で観客入場数が制限された中でも、彼はその最後にふさわしい形で見送られた。

 内田には家族と一緒に素晴らしい時間を過ごしてほしいし、コンディション面で苦難に見舞われてきた過去5年間を想えば、ゆっくりと体を休めてほしいと思うが、何らかの形でサッカー界に残ってほしいという願いもある。欧州へのステップアップのために必要なことについて自らの経験と知識を有する彼には、新たな成功を求めて同じ道を辿る次世代の日本人選手たちを、様々な形で助ける役割を完璧に任せることができそうだ。

(文:ショーン・キャロル)

【了】

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