隠しきれなかった西野朗監督の戸惑い
受話器の向こう側からは、ちょっぴり戸惑った声が聞こえてきた。
「どうしてこうなったのでしょうか……」
2022年のカタールワールドカップ出場へ向けた第一歩となる、アジア2次予選の組み合わせ抽選会が行われた今月17日の夕方。電話をかけたのは日本サッカー協会の田嶋幸三会長であり、着信を受けたのはタイ代表およびU-23タイ代表監督へ就任したばかりの西野朗・前日本代表監督だった。
田嶋会長としては、マレーシアの首都クアラルンプールで行われた抽選会の結果を、西野氏もすでに知っていると思っていた。だからこそ、抽選会の直前にタイサッカー協会から代表監督就任が正式に発表された、西野氏へのエールも込めてスマートフォンを手に取った。
しかし、西野氏はまだ状況を把握していなかった。自らが率いることが決まったタイ代表がインドネシア、マレーシア、ベトナム、そしてUAE(アラブ首長国連邦)各代表とグループGを戦うと、田嶋会長から教えられた瞬間に発した第一声が、冒頭で記した「どうして――」だった。
ならば、何に対して戸惑いを覚えたのか。答えはUAE以外の顔ぶれにある。いずれもASEAN(東南アジア諸国連合)の国々であり、東南アジア版のオリンピックと呼ばれるSEA Games(東南アジア競技大会)と同じ状況が、ワールドカップ予選で実現することに西野氏は驚きを隠せなかった。
抽選会はシードされた34か国に、6月上旬に行われたアジア1次予選を勝ち抜いた6か国を合わせた計40か国を、6月14日に更新されたFIFAランキング順に5つのポッドに分ける作業から開始された。116位のタイはパレスチナ、インド、バーレーン、タジキスタン、北朝鮮、チャイニーズ・タイペイ、フィリピン各代表とともに第3ポッドに入った。
そして各ポッドから1か国ずつが、AからHまでのグループに振り分けられていく。抽選は第5ポッドから始まり、柏レイソルなどを指揮した吉田達磨監督に率いられるシンガポール代表がグループDに、元日本代表の本田圭佑(33)が実質的な監督を務めるカンボジア代表がグループCに入った。
迎えた第3ポッドの抽選。タイは第5ポッドからインドネシア、第4ポッドからはマレーシアが入っていたグループGに振り分けられ、続いて第2ポッドから躍進著しいFIFAランキング96位のベトナム、そして第1ポッドからは同67位のUAEが加わった。
「ただのワールドカップ予選ではないような戦い」
5か国のうち4つが同じ地域となる確率は、実際のところ決して高くはない。それでも、あくまでも抽選による悪戯だと受話器越しに田嶋会長から説明されても、西野氏は「うーん」と考え込んでいたという。どことなく歯切れが悪かった理由は、抽選会から2日後の19日に明らかになる。
都内のホテルで行われた、タイ代表およびU-23タイ代表監督への就任会見。タイサッカー協会のソムヨット・プンパンムアン会長とともにひな壇に座った、上下グレーのスーツに濃紺のネクタイ姿の西野氏は、グループGを戦っていく覚悟と決意をこんな言葉に集約させている。
「UAEという絶対的なチームがあるとは言っても、このグループはただのワールドカップ予選ではないような戦いになるのではないか」
ホーム&アウェイ方式で争われるアジア2次予選において、ベトナム、マレーシア、そしてインドネシアに乗り込むアウェイ戦の移動距離は大幅に軽減される。メリットが生じる一方で、身近なライバルとして火花を散らしてきた歴史をもつがゆえに、近隣諸国との対決は必然的により激しさを増す。
今年に入って、タイ代表は大きく揺れてきた。1月にUAEで開催されたアジアカップのグループリーグ初戦で、インド代表に1-4とまさかの大敗を喫した直後に、2017年4月から指揮を取ってきたセルビア人のミロヴァン・ライェヴァツ監督が電撃的に解任された。
暫定的に後任監督を任された、タイ人のシリサク・ヨディヤタイ・アシスタントコーチのもとでバーレーン代表に1-0で勝利し、UAE代表とは引き分けたタイはグループAの2位を確保。ベスト16で中国代表に屈したものの、1972年大会以来となるグループリーグ突破を果たした。
しかし、6月に行われた伝統のキングスカップ準決勝でベトナム、3位決定戦でインドに連敗した責任を取るかたちでヨディヤタイ・アシスタントコーチも退任を余儀なくされる。U-23代表監督とともに、空位になっていた状況で兼任監督としてラブコールを送られたのが西野氏だった。
「チームを率いられる幸せ」
日本代表をベスト16へ導いたロシアワールドカップをもって日本代表監督を退いて1年あまり。ヴァイッド・ハリルホジッチ元監督の電撃解任に伴い、急きょ代表監督に就任したのが昨年4月上旬。約2か月という、あまりにも短い準備期間にも関わらず、低空飛行が続いていたチームを右肩上がりに転じさせた手腕に、タイサッカー協会も大きな期待を寄せた。
そして、64歳になった西野氏自身も決して燻ることのない、現場で指導することへの情熱を胸中にたぎらせ続けていた。柏レイソルを皮切りにガンバ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスを率いて歴代1位となるJ1通算270勝をマーク。U-23代表を率い、日本が28年ぶりに臨んだ五輪となる1996年のアトランタ大会では、王国ブラジルを破る「マイアミの奇跡」で指揮を執った。
そして、まだ記憶に新しい昨夏のロシアにおける激闘の跡。栄光に彩られてきたように映る西野氏の指導者人生のなかで、実は未知の領域が存在していた。タイサッカー協会から届いたオファーは、名将のモチベーションを引きあげるのに十分だった。
「他国の、それも代表チームの監督を務めることは決して簡単なことではない。それでも自分自身、異国でのチャレンジに対して強い思いがあり、再びチームを率いられる幸せも感じています」
選手たちが海外へ新天地を求めるようになって久しい日本サッカー界で、指導者が海を渡るケースは極めて少ない。サッカー界全体が成長していくためにも、自らも結果を恐れることなく前へ出る。オファーを受けて6月末にバンコクを訪れた西野氏は、国を挙げて寄せられた期待に「本当に光栄なこと」と心を震わせ、帰国後に抱えていた仕事を整理してから正式に受諾を伝えた。
「会長からは『新体制のもとで新しいタイのサッカーを築きたい。発展をサポートしてほしい』と熱意のある話を聞きました。タイのサッカーはかつて日本にとってアジアにおける大きな壁でしたが、私自身、思っていた以上に成長していないと感じてもいました。タイのサッカー界には非常に大きなポテンシャルがあると思っているので、タイ代表が東南アジアのリーダーとなれるように、日本代表としっかり戦えるようなレベルアップを図れるように、覚悟をもって成長させていきたい」
西野監督を待ち受ける困難とは?
日本とタイの対戦史を振り返れば、1984年4月にシンガポールで行われたロス五輪アジア最終予選が思い浮かぶ。エースのピヤポン・プオンにハットトリックを達成されるなど、2-5とまさかの大敗を喫した日本はリズムを大きく狂わせ、最終的に予選敗退を余儀なくされている。
当時29歳の西野氏は、日本リーグの日立製作所(現柏レイソル)で天才肌のミッドフィールダーとして活躍していた。それだけに、日本代表が喫した屈辱を鮮明に覚えているのだろう。時空を越えて、タイサッカー界のポテンシャルに魅せられる理由もここにあるのかもしれない。
実際、Jリーグの舞台でもDFティーラトン(横浜F・マリノス)、MFティティパン(大分トリニータ)、そして昨季のベストイレブンに輝いたMFチャナティップ(北海道コンサドーレ札幌)が活躍している。彼らの存在感もまた、ポテンシャルを確信させるのに十分だったはずだ。
注目の初陣は9月5日、ホームにベトナムを迎えるアジア2次予選の開幕戦となる。現役時代はタイ代表でもプレーした、キャティサック・セーナームアン元監督のもとで、ロシア大会出場をかけた3次予選に進出しているだけに、2次予選突破は最低限のノルマとして課されるだろう。
「開幕戦の相手がベトナムという点で、自分にとって初戦という意味でも非常に厳しい戦いになる。まずはタイサッカー界の現状を、深く理解しなければいけない。すでにリーグ戦が開幕したなかで各チームへ足を運び、選手たちを視察することを含めて、作業量が非常に膨大になると思っている」
歴代の日本代表監督を振り返れば、外国人監督のほとんどは同胞のコーチングスタッフを入閣させている。文化や風習、何よりも言語が異なる海外での指導において、同じ言葉で考え方などを共有できる腹心の存在は、気心が知れた仲間がいる意味でも心強くなる。
しかし、西野氏は日本人スタッフを同行させるつもりはない。タイ人の指導者を入閣させ、通訳を介しながら2つのカテゴリーの代表チームを率いる。通訳を介してJクラブで外国籍選手を指導した経験はあっても、チーム全体を動かした経験はない西野氏は、困難が待つと覚悟している。
「どれだけ意思の疎通を図れるか、という点が本当に大変になる。信頼関係を構築していくなかでニュアンス的にも正確に伝わるとは思わないし、その意味では言葉のハンデは間違いなく存在する。それでもサッカー観や目指すものを共有して、情熱をもって選手やスタッフに伝え切っていく指導方法を、自分のなかでしっかりと確立していかなければいけない」
田嶋会長がかけた言葉
アジア2次予選では各グループの1位と、2位の上位4チームの合計12チームが、来年9月に開幕予定の3次予選へ進出する。冒頭で記した電話でのやり取りのなかで、田嶋会長は2次予選突破のチャンスは十分にあるとしたうえで、西野氏にこんな言葉もかけている。
「ここは1位狙いじゃないと、厳しいんじゃないでしょうか。2位になると、つぶし合いになるおそれもあると思うので」
就任会見から2日後の今月21日に、西野氏はすでにタイへ渡っている。ベトナムとの初陣まで、残された時間は約1か月半。代表監督としてやるべきことが山積みになっているからこそ、ロシア大会に至る自身の経験を自虐的に振り返りながら努めて前を向く。
「時間がない、ということに慣れているわけではないんですけど、そう簡単に何度も成功することでもない。それでも、限られた時間のなかでチャレンジしたい。すべての国が目標をもってサッカー界を走らせているなかで、私もタイサッカー界の一助になりたい。勝負の世界なのでいろいろな結果が出ますけど、チャレンジを繰り返しながらチームと選手のグレードをあげていく喜びを味わえることは、指導者冥利に尽きる」
年内にアジア2次予選を5試合戦った後はモードを切り替えて、来年1月にタイで開催予定の、東京五輪出場をかけた最終予選を兼ねるAFC・U-23アジア選手権が待つ。言い訳無用の戦いへ。目の前にそびえる、高く険しいハードルを思い浮かべるたびに、西野氏の表情は精かんさを増していく。
(取材・文:藤江直人)
【了】