青年指揮官と若武者たちの奮闘
平成30(2018)年、ロシアワールドカップの日本代表を率いた西野朗監督が一躍、知名度を上げる大舞台となったのが、平成8(1996)年のアトランタ五輪である。
昭和43(1968)年メキシコ五輪の銅メダルから28年。アジアの壁に阻まれ、冬の時代を強いられてきた日本サッカー界を世界へと導いたのが、当時41歳の青年指揮官だったのだ。
川口能活や城彰二、前園真聖、中田英寿らを擁した日本はブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと同組に入った。中でも7月21日の初戦の相手・ブラジルは、2年前の米国ワールドカップ優勝メンバーであるベベット、アウダイールらを擁する「ドリームチーム」。彼らを倒すのは不可能に近いと思われた。
実際、4万6000人が集まったマイアミ・オレンジボウルのスタンドも大半がカナリア色。若き日本はアウェーの状況下での戦いを強いられたのである。
西野監督が考えたのは、相手の爆発的攻撃力を徹底的に封じること。3-6-1の布陣を採用し、鈴木秀人にベベット、松田直樹にサビオ、服部年宏にジュニーニョをマンマークさせ、自由を奪う秘策を取ったのだ。さらには、ダイナミックな攻撃参加をウリとする左サイドバックのロベルト・カルロスのシュートを事細かく分析し、その特長を川口らに叩き込ませたのだ。
こうした守備対策が功を奏し、日本は序盤からシュートの雨嵐を降らされながらもゴールを死守。失点を許さなかった。試合は前半45分をしのぎ、後半に突入した。
ブラジルの攻撃の圧力はより一層強まったが、川口の神がかり的なスーパーセーブが飛び出し、ブラジルはどうしてもゴールをこじ開けられない。ベベットもサビオもジュニーニョもリバウドも苛立ちを募らせ、日本の術中にはまっていく。