1997年(平成9年)
悲願のワールドカップ初出場を決めた日本代表【写真:Getty Images】
ヴィッセル神戸が新たに加わり、Jリーグは17クラブで争われることとなった。
●参加クラブ
鹿島アントラーズ
浦和レッドダイヤモンズ
ジェフユナイテッド市原
柏レイソル
ヴェルディ川崎
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
ベルマーレ平塚
清水エスパルス
ジュビロ磐田
名古屋グランパスエイト
京都パープルサンガ
ガンバ大阪
セレッソ大阪
ヴィッセル神戸
サンフレッチェ広島
アビスパ福岡
2年ぶりに2シーズン制とチャンピオンシップが復活。年間でホーム&アウェイ2回総当りは前年を踏襲したため、1995年のように50試合以上を戦うということはなくなった。参加クラブ『17』と奇数で行われたのはJリーグ発足以来初めてとなり、各節1チームは試合がなかった。2019年シーズンまで、J1が奇数チームで行われたのは1997年のみである。
また、前年はPK戦の負け数が優勝の行方を左右したこともあり、1997年は勝ち点の配分が変更。90分勝利が『3』、Vゴール勝利が『2』、PK勝利は『1』に改められた。敗れた場合は勝ち点0とした。
背番号が固定されることになったのは、このシーズンからだ。それまではジーコ(鹿島アントラーズ)が13番をつけてベンチに座ったり、守備職人でミニラの愛称で親しまれた中村忠(ヴェルディ川崎)が10番をつけたりということがあった。
そして、日本サッカー界の歴史が大きく動いたのもこの年である。フランスワールドカップ出場を目指した岡田ジャパンは、自力での予選突破が消滅しながらもアジア第3代表決定戦に進み、イラン代表と対戦した。ダエイ、アジジ、マハダビキヤなどを揃えアジア最強と呼ばれたイランを相手に、中田英寿が大活躍。中山雅史の先制点をアシストすると、正確なクロスで城彰二のヘディング弾を演出した。
試合は2-2の同点で延長戦に突入。カウンターから絶体絶命のピンチを迎えるものの切り抜けると、延長後半終盤にドラマが生まれる。中田がドリブルで持ち込み、左足でシュート。GKが弾いたところに詰めたのは、それまで招集されながら出場機会がなく、この大一番で途中投入された岡野雅行だった。スライディングで慎重に押し込むと、両手を広げてベンチ方向へ走る。
岡田武史監督が真っ先に抱きつき、かけていたメガネは壊れてしまったという。劇的なVゴールで世界の扉をこじ開けた日本代表。マレーシアのジョホールバルで掴んだこの勝利は、『ジョホールバルの歓喜』として日本サッカーの歴史に刻まれている。