自分たちのサッカーに「相手」が存在しなくなっていないか
サッカーではしばしば言葉が一人歩きします。「自分たちのサッカー」という言葉はその好例でしょう。
「自分たちのサッカー」とは、言葉にすると“自分たちがやるべきこと”をやり通せた試合のことでしょうか。サッカーは相手がいるスポーツですから、本来その中には“相手云々にかかわらず自分たちがやるべきこと”もあれば、“相手(あるいは試合の流れなど)によって変えるべきもの”どちらもあります。
それは当然のこと。どちらかではなく、どちらも、です。試合の目的は常に「勝つこと」ですから、どちらも組み合わせながら、勝つための方法を逆算して戦うのが“サッカーをする”ということだと思います。
それなのに、ある時期日本では「自分たちのサッカー」から“相手”が存在しなくなったように感じました。「自分たちのサッカー」が“相手云々にかかわらず自分たちがやるべきこと”だけになり、“相手(あるいは試合の流れなど)によって変えるべきもの”が排除されたようでした。二つが二極化されて語られ、それを“善か悪か”で議論されているようにさえ見えました。
そこには、国民性のようなものが影響しているところもあったと思いますが、それ以上に、日本サッカーにおいて、相手云々によって何が変わり、何が変わらないのか、が明確にされていないことが根底にある気がしました。
概念さえ存在していなかった「相手を見てサッカーをする」
だからでしょう、「自分たちのサッカー」の対極の言葉として、「マリーシア」とか「駆け引き」とか「相手を見てサッカーをする」とか、そんな言葉がよく聞かれます。日本人が苦手とすると言われている部分です。しかし、実際にはこれらの全てが対極に位置しているわけではなく、むしろほとんどは同じところにあります。
「自分たちのサッカー」の中に「マリーシア」とか「駆け引き」などがあり、それは「相手を見てサッカーをする」ということですが、それらも含めたものが「自分たちのサッカー」で、対極には位置していません。
それなのに、言葉が一人歩きすると面白いことが起きました。「自分たちのサッカー」という言葉にみんなが振り回されて、日本全体が「相手を見なくていい」とか「駆け引きは必要ない」などと言っているようにさえ感じました。
私が2年間、東京ユナイテッド(関東社会人リーグ1部)と東京大学ア式蹴球部(東京都大学リーグ2部)で指導をさせていただく中で取り組んだ課題も、この「自分たちのサッカー」なるものの捉え方についてでした。
トップカテゴリーではない彼らはある意味で日本サッカーを象徴していたと思います。トップ選手たちはきっとどんな指導の下でも自分で考えて道を切り開いていけるのでしょうが、私が向き合った彼らはある意味ではそうではありませんでしたから、私が彼らに“何をどう伝えるか”は非常にデリケートな判断が求められました。
語弊を恐れずに言うと、私が、日々彼らから感じたのが「相手を見てサッカーをする」ということを理解できていないことでした。というよりも「相手を見てサッカーをする」という概念さえも彼らに存在していないように感じました。
(文:岩政大樹)
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