東京五輪を目的でなくきっかけに
もし半世紀以上前に東京五輪が開催されていなければ、まだ日本でサッカーはマイナー競技の1つに埋没していた可能性がある。戦後の復興を象徴する祭典がやって来る数年前まで 日本サッカーには「アジアでも最弱」のレッテルが貼られていた。
第二次世界大戦前からサッカーを見続けて来た大ベテランのスポーツライター、賀川浩の言葉を借りれば「他の競技と違って、サッカーだけが東京五輪を目的とせず、きっかけにしようと多くの人たちがもがいた」という。その結果、強化と普及の道筋が劇的に切り拓かれていった。日本サッカーは世界基準という大海へと舵を切り、新しい航海を始めるのだった。
1958年5月、東京で第3回アジア大会が開催された。サッカーには14ヵ国が参加。日本はグループリーグでフィリピン、香港と対戦し、あえなく連敗で開幕を迎える。翌年にはIOC(国際オリンピック委員会)総会で、5年後の五輪が東京で開催されることに決まるがその暮れに行われたローマ五輪予選でも、日本は後楽園競輪場で韓国と連戦し、0-2、 1-0で出場権を逃していた。
しかしこのどん底の惨状が、逆にJFA(日本蹴球協会=当時)の英断を促すことになる。それまで日本サッカー界唯一の金字塔は、1936年ベルリン五輪で優勝候補のスウェーデンに逆転勝利を収めたことだった。だが当時の英雄たちが経験論を根拠に牽引しても低迷は、長引くばかりだった。
賀川の証言である。
「ちょうどその頃、ルディ・マックというスキーの指導者の密着取材をしたんです。プロのコーチとは、こんなに凄いのか、と感心しました。やはり指導は専門家に託した方がいいと思いましたね。幸い当時のJFA野津謙(ゆずる)会長は、1970年代から日本でワールドカップをやろうと言い出すほど先進的な人でした。結局関係者が 知恵を絞り、DFB(ドイツ連盟)と連絡を取り、デットマール・クラマーという指導の天才が来てくれた。そのクラマーが、長沼健、岡野俊一郎という若い指導者の才能を引き出したことで、見事に布石が打たれたわけです」