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【特集・3/11を忘れない】塩釜FC小幡忠義理事長インタビュー ~被災地救援を支えた塩釜FCの絆~(前編)

東北のガキ大将が心血を注いで育んできた真の意味で「地域に根差したクラブ」。サッカークラブの枠を超えた救援活動を生んだ揺るぎない哲学を聞く。

text by 木村元彦 photo by Tadayoshi Obata

1964年、宮城県塩竈市にスポーツ少年団として立ち上がり、加藤久、佐々木勇人(G大阪)、遠藤康(鹿島)など多くのJリーガーを輩出した塩釜FC。本当の意味で地域とのつながり、人との絆を重んじてきた塩釜FCは、今回の大震災で被災地域のよりどころとなり、被災者救援の拠点となった。サッカークラブは誰のものか? その問いへの明確な答えをこのクラブは持ち合わせている。塩釜FC理事長で宮城県サッカー協会会長も務める小幡忠義氏を訪ねた。

【後編はこちらから】 | 【サッカー批評issue51】掲載


美談よりも事実を伝えて欲しい

 東北大学多元物資科学研究所の村松淳司教授は日本におけるナノテクノロジー研究の第一人者にして、ベガルタ仙台の熱烈なサポーターである。その繋がりもあって、宮城県総合運動公園・グランディア21ボランティアセンターのキャプテンを務めていた。

 スポーツボランティアのリーダーは震災以降、新たに災害ボランティアの現場に身を投じている。自身、3月11日、自宅のある利府町から離れた栗駒近くの大崎市北部で被災しながら、翌日家に戻ると、以降休日返上で駆け回った。強烈な記憶が焼きついたのは震災から3日後だった。沿岸部に入った村松はそこで地獄を見た。「ここは本当に日本なのか」。

 震災の爪跡、廃墟などという言葉が現実に追いつかない。巨大な津波によって海底から巻き上げられた廃棄物とヘドロが陸地に打ち上げられ、あらゆるものをなぎ倒し、破壊されたガレキの山は視界の隅にまで広がって地平の果てまで続くかと思われた。呆然と歩いた村松はそこここでご遺体を目の当たりにする。

 突然の死に出くわしたかのような「きれい」なものあれば、ようやく胴体と認識できるもの、あるいはただ部位でしかないもの。しかし、現場に来た警官も自衛隊員も誰もそれを収容しようとはしない。この段階ではまず、ガレキに閉じ込められた生存者を捜索して救出することが第一のミッションであり、生きている者の発見が最優先されていた。村松は救出された人からこんな話をたくさん聞いた。

「助けて、助けてという声が夜通し、聞こえていました。でも私もどうすることもできず、朝になるともうその声は聞こえなくなっていました」

「仙台の本当のダメージを東京の人は知らない。ベガルタの関口(訓充)なんかも二日間避難所から通ったんだから」

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