アルバイトを3つ掛け持ちしながらも追い続けたサッカーへの思い
最高学府の東京大学法学部から、世界最大級の金融グループ傘下にあるゴールドマン・サックス証券へ。激しい競争を勝ち抜き、35歳だった2003年10月には執行役員に就任するエリート街道を歩みながら、木村正明氏はサッカーに対する「悔い」を抱き続けていた。その15年後、同氏はJリーグの専務理事に抜てきされることとなる。
岡山県岡山市で生まれ育った木村氏は、岡山大学教育学部附属中学校でサッカーを始めた。野球部がなかったから、というやや消極的な理由だったが、すぐに面白さと奥の深さに魅せられる。足の速さを買われてFWとして活躍し、岡山市の中学生選抜にも名を連ねる存在となった。
全国でも屈指の進学校、県立岡山朝日高校でもサッカー部に所属。東京大学を第一志望に掲げ、大学に進んでも、体育会サッカー部(運動会ア式蹴球部)の門を叩こうと決意していた。
しかし、岡山市から都内へ生活拠点を移し、浪人生活の1年目を終えようとしていた1988年の春に、まったく予期していなかった形でターニングポイントが訪れる。
「父親が病気で他界したんです。(生前は)事業をやっていた関係で借金もちょっと残っていたので、実家からの仕送りがなくなり、ずっとアルバイトという毎日でした。なので、とても体育会サッカー部には入れなかった。それに対する悔いみたいなものが、常に自分のなかに残っていたんです」
2浪の末に東京大学合格の夢を成就させてからは、多いときで3つのアルバイトを掛け持ちしながら生活費を稼いだ。それでも、サッカーに抱いてきた憧憬の念が萎むことはなかったのだろう。時間の合間を縫って、いまは取り壊された旧国立競技場へ駆けつけている。
夢中になって目に焼きつけた一戦は、Jリーグの前身である日本リーグの読売クラブ対日本鋼管サッカー部。後者のセンターフォワードで、身長190cm体重80kgの恵まれたサイズを武器として日本代表でも活躍した松浦敏夫さんのプレーは、いまでも鮮明に覚えている。
「何だか自分一人で興奮していたんですけど、観客は確か300人くらいだったんですよね。実は日産自動車サッカー部のファンだったんですけど、当時はいろいろなチームの試合を見に行きたくて」