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松井大輔、磐田での学びと欧州再挑戦の決意。「また自分の可能性を探っていく」【「谷間の世代」と呼ばれて】

1979年生まれ組が「黄金世代」と称される一方で、「谷間の世代」と呼ばれていた1981年世代。ワールドユース(現U-20W杯)や五輪ではグループステージ敗退を経験したが、2010年の南アフリカW杯では決勝トーナメントに進出した日本代表チームで軸となる世代となり、今なおJクラブで主力を担う選手たちもいる。同世代の代表的選手ともいえる石川直宏、松井大輔がキャリアのなかで重要な決断を下した今、81年組の面々に今一度フォーカスしたい。(文:元川悦子)

シリーズ:「谷間の世代」と呼ばれて text by 元川悦子 photo by Getty Images

2010年南アフリカW杯、あの名場面から7年

2010年南アフリカW杯初戦のカメルーン戦でアシストを記録した松井大輔
2010年南アフリカW杯初戦のカメルーン戦でアシストを記録した松井大輔【写真:Getty Images】

 2010年6月14日、異様な熱気に包まれた南アフリカ・ブルームフォンテーヌのフリーステイト・スタジアム。2010年ワールドカップ直前、親善試合で厳しい戦いを強いられるなど崖っぷちの状況に追い込まれた日本代表は、圧倒的なフィジカルを誇るカメルーン相手に奮闘していた。

 その前半39分、この試合最大の見せ場がやってくる。左インサイドハーフ・遠藤保仁(G大阪)からの展開に松井大輔(オドラオポーレ=ポーランド)が右サイドで反応。いったんタテに行くと見せかけて左に切り返し、ピンポイントクロスを送った。

 これをファーサイドの絶妙の位置で受けたのが本田圭佑(パチューカ)。次の瞬間、彼のシュートがゴールネットを揺らし、日本のミラクルが始まった……。

 あの名場面から7年。値千金のアシストを見せ、日本のベスト16入りの原動力となった松井は、3年半を過ごしたジュビロ磐田を離れてポーランド2部のオドラオポーレに新天地を求めた。

 2004年アテネ五輪の直後に当時フランス2部のルマンへ移籍し、1部昇格の原動力になって以来、サンテティエンヌ、グルノーブル、ロシア1部のトム・トムスク、フランス1部のディジョン、ブルガリア1部のスラヴィア・ソフィア、ポーランド1部のレヒア・グダンスクと足掛け10年間で4ヶ国7クラブでプレー。その類まれな国際経験値が、南アワールドカップでの大ブレイクの原動力になったのは間違いない。

 ポーランドをいったん離れ、日本に戻ったのは2014年1月。当時磐田のジェネラルマネージャーを務めていた加藤久(現ヴィクサーレ沖縄FC代表)からのオファーに心を動かされたからだった。

 ペリクレス・シャムスカ体制で指導した最初のシーズンはキャプテンも経験した。が、同年終盤に名波浩監督体制に移行すると、キャプテン変更、出場機会減少といった苦境にも直面することになる。とりわけ、磐田4年目の今季は中村俊輔の加入もあって、J1出場はわずか7試合。「このままでいいのか」という焦燥感が本人の中でも高まっていたに違いない。

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