話を聞ける選手
――内田選手は、大岩さんの引退セレモニーに駆けつけて花束を渡すなど、とても尊敬していたようです。鹿島でのお二人はどういう間柄でしたか?
「年が離れているから篤人も僕には気を遣っていただろうし、同郷というのが一番の共通項でした。同じ静岡の出身なんでね。プレーの面ではポジションが隣の(岩政)大樹とか(小笠原)満男とコミュニケーションを取りながら成長していったと思います。
特に大樹には、すごく怒られながらいろいろ吸収していったと思いますよ。だから、篤人はまわりの人や一緒にやっている人の背中を見ながら成長していったんだろうけど、直接ポジションが被っているのは大樹だったり満男。僕ももちろん一緒にやっていますが、プレーに影響することは、あの二人あたりがいろいろ言っていたように思います」
――小笠原選手や岩政選手とは違う役回りだったんですね。
「そうですね。彼は高卒1年目から急にプロの試合で出始めたとき、体の疲労もそうですし、精神的なストレスと言うのはおかしいかもしれないけれど、ずっと緊張しながらやらないといけなかったと思う。
そういうものを息抜きさせてあげることも大事だと思っていましたね。わざとサッカーとは違う話題を振って笑わせたり、リラックスさせてあげる方に気を遣っていたように思います。静岡の話題を出したりしてね」
――なぜ、そうした気遣いをしたんですか?
「僕のなかでは若い選手に対してはいつもそうなんですけど、どうすれば彼らが気持ちよくプレーできるか、リラックスしてやれるのか、思い切ってプレーできるのか、を考えて接していました。
篤人は、いろいろと注意されながらも聞く耳は持っていたので、あとはどういう風に自分の考えているプレーを出させてあげるかを考えて試合をしていたように思います。彼に対して『ああしろ』『こうしろ』と言った記憶はあまりないですね」
――内田選手からアドバイスを聞きに来ることはなかったのでしょうか?
「ないですね。彼はあんまりそういうタイプじゃないでしょ。『どうしたらいいですか?』『これでいいですか?』と、聞きに来るタイプじゃない。僕とは年齢が離れているからあまり聞きに来なかっただけかもしれないですけどね」
――鹿島に入りたてのときは体も細く、子鹿のようだった選手が、いまや世界的なサイドバックに成長しました。
「そうですね。『大丈夫かな』と心配でしたね。それでもみんなが言うようにいろいろ吸収して、あそこまでの選手になったわけだし、すごいですよね。去年かな、じつはドイツに行って会ってきたんですよ。シャルケまで行って試合を観て、一緒に飯食ってきたんです。彼の中身はそんなに変わってなかったけれど、体つきとか目つきは、やっぱり大人になっていた。
欧州チャンピオンズリーグで試合をやって、代表でもあれだけの試合数に出てるしね。南アフリカのワールドカップには出られなかったかもしれないけれど、それ以外はずっと試合に出てるでしょ。サッカーで言えばトップレベルでやってるわけじゃないですか。ある意味タフですよね」