一回のチャンスを決められ敗退した90年W杯
ドゥンガはブラジル南部、リオグランジ・ド・スル州ポルト・アレグレのインテルナシオナルで頭角を現し、その後、いずれもブラジルの名門クラブであるコリンチャンス、サントス、ヴァスコ・ダ・ガマで活躍し、その後88年にイタリアへ渡っている。
プレースタイルはボランチとしてのハードマーク、右足の強いミドルシュート、そして何よりもドゥンガの一番の特徴だったのは、ピッチ上でみせるリーダーシップだった。
代表においては90年のワールドカップを目指すラザローニ監督のセレソン(編注:セレクションを意味するポルトガル語。ブラジル代表のことを指す)で中心選手となる。
82年大会、86年大会とテレ・サンターナ監督率いるセレソンはジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ、いわゆる黄金のカルテットと呼ばれる中盤を擁し、美しいサッカーを繰り広げたが、いずれも優勝という結果を出せなかったため、90年大会はなんとしても優勝が求められていた。結果を重視したサッカーを標榜しなければならない中で、ラザローニ監督にはドゥンガのような、しっかりとマークを行い、闘志をむき出しにして戦う選手が必要だったのだ。
89年コパ・アメリカに優勝したブラジルは、90年ワールドカップイタリア大会の優勝候補とされていた。
ところが本大会が始まると、グループリーグは全勝したものの、決勝トーナメントラウンド16で、アルゼンチンに敗れてしまう。ブラジルが試合をほとんど優勢にすすめながらも、アルゼンチンはたった一回のチャンスをものにした。マラドーナからのパスをカニージャが決めたのだ。