ミラン式4-4-2が図らずももたらした暗黒時代
80年代の終わりにACミランがゾーンディフェンスとプレッシングを組み合わせた4-4-2で世界を席巻すると、練習場のミラネッロには各国のコーチが見学に訪れる“ミラノ詣で”が流行した。ミランの強さは明らかだったが、戦術的なメカニズムがよくわかっていなかったからだ。
しかし、次第にミラン式4-4-2の謎が解明されてくると、多くのチームがミラン方式を採り入れるようになっていった。90年代はミラン式の4-4-2と、従来のマンマーク方式の延長にあるリベロを置いた3-5-2が二大主流フォーメーションになった。21世紀に入るとリベロ方式は減少、2010年南アフリカワールドカップでは大半の代表チームがゾーンの4バックを採用するに至っている。
ミラン式4-4-2は戦術の歴史において大きな分岐点だった。
コンパクトな守備ブロックによって、攻撃側の時間とスペースが削り取られパスワークが難しくなった。また、規律とコンタクトスキルを要求されるため、その条件に欠けるテクニカルなプレーヤーが排除される傾向が明確になった。ミラン式の普及は戦術的には大きな変化であり進歩だったが、娯楽性という点ではマイナスに働いたといえる。
ルート・フリット、マルコ・ファンバステン、ロベルト・ドナドーニなど素晴らしいアタッカーを擁していたミラン自身は、この戦術のパイオニアでもあり初期段階では圧倒的に強く華のあるプレーぶりだった。だが、ミランを模倣したチームにはそれだけの人材がおらず、しかも戦術遂行のために技巧派が冷遇されたので、守備は強化されても攻撃力と魅力に欠けるチームが量産される事態になってしまったのだ。90年代はエンタテインメントにおいて、ヨーロッパサッカーの暗黒時代とさえいえるかもしれない。