青天の霹靂だった番記者としての移籍
禁断の移籍は容易ではない。赤白から純白のユニフォームに着替えるというのは、決して簡単なことではないのである。
スペインの首都マドリッドに引かれた、アトレティコ・マドリーとレアル・マドリーを隔てる境界線。ウーゴ・サンチェスをはじめ、その境界線を越えた選手は何人か存在している。が、境界線沿いの厳重な警備を目の当たりにして、あきらめざるを得なかった選手も数知れない。
最後のケースは、クン・アグエロだ。アトレティコのミゲル・アンヘル・ヒル・マリンCEOは、自チームのスター選手であった彼のマドリー移籍を食い止めるため、ファンの反感を買わぬためにありとあらゆる手段を講じた。マドリー会長フロレンティーノ・ペレスがヒル・マリンを説き伏せることはついにかなわず、アグエロはマンチェスター・シティ移籍で納得するほかなかったのだ。
けれども、今から書き綴る禁断の移籍の物語は、ボールの扱い手として何百万ユーロも稼ぐスタジアムの英雄のものではない。スペインのスポーツ新聞『マルカ』で、何年にもわたってアトレティコを追い続けながら、永遠のライバルの番記者になった一記者、すなわち筆者ダビド・ガルシア・メディーナ自身の話である。
マドリッドに本拠を構える『マルカ』編集部には、マドリッドを代表する2クラブであるマドリーとアトレティコのセクションがあるが、私は2015年10月にアトレティコからマドリーのセクションに異動することを命じられた。理由は「仕事ができるから」ということだったが、私は動揺を禁じ得なかった。
この文章の訳者であり、情報の加筆や構成など、気の利いたこともしてくれる私の友人シン(江間慎一郎、マドリッドで記者、翻訳者として活動)ならば、その心情を理解してくれるだろう(だから、こんな記事を依頼されたのだが、まったく……)。あれは私がアトレティコ番記者として、マドリーの本拠地サンティアゴ・ベルナベウでのマドリッドダービーを取材していたときだった。
アトレティコがビハインドを負っているとき、横に座るシンからマドリーの話題を持ちかけられ、「俺にマドリーなんて言葉を口にするな!」と返して言い合いに発展したのだった。そんな私がマドリーの番記者になるなど……。青天の霹靂もいいところだ。