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次のシーズンはカズひとり分で全選手の年俸を賄えました
カズのキャリアにおいて、重要な分岐点はいくつかあり、そのひとつが98年のV川崎からの戦力外通告だ。
引導を渡すことになったのは当時の経営トップ。坂田信久という。現在、坂田は国士舘大学大学院の教授を務め、サッカー界とはJリーグのマッチコミッショナーとして関わりを持ち続けている。
98年をもって読売新聞がV川崎の経営から撤退し、水面下では東京移転の計画が進行中。坂田が先頭に立ってクラブの舵取りをした時期は、まさしくクラブの激動期だった。
坂田の主たる仕事は赤字の圧縮である。その額、約26億5000万円。そこで高額選手の放出は避けて通れなかった。もちろん、カズはその筆頭候補だ。クラブにとって最も重要で、かつ最も輝かしいターゲットだった。
年俸以外に発生する諸々の費用を含めると、カズひとりに年間およそ6億円のコストがかかっていたと聞く。
「6億円はいってないね。具体的な金額は言えませんけれど。ただ、次のシーズンはカズひとり分で全選手の年俸を賄えました」
と、坂田は小さく笑った。
そうして、坂田はカズとの出会いから語り始めた。
85年、ブラジル・サンパウロ。坂田は日本テレビスポーツ局のプロデューサーとして、キリンカップサッカーで来日予定のウルグアイ代表を取材していた。サンパウロを訪れたのは、ブラジル代表との親善試合があるためだった。
そこで、ブラジル武者修行中のカズと出会う。カズ18歳、坂田は44歳だった。
「親父さんとヤス(兄の泰年)も一緒でした。輝いてたねえ。キラキラ光っていた。カラオケに行って、カズは田原俊彦の曲を歌いました。歌が上手いんですよ。たしかマイマイクを持ってたな。金色の派手なのを」
その出会いを機に、坂田はカズを密かに応援する。異国の地で挑戦する若者の情熱と野心が報われてほしいと願った。
90年7月、サントスFCから読売サッカークラブに移籍したカズは、数年後、空前のブームに沸いた日本サッカーの象徴的プレーヤーとなる。そして、94年にはイタリアのジェノアに移籍し、セリエAでプレーする初のアジア人となった。