MF:中田英寿(なかた・ひでとし)
生年月日:1977年1月22日
出身高校:韮崎高等学校(山梨)
高校卒業後の加入先:ベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)
プロ1年目のリーグ戦成績(1995シーズン):26試合8得点0アシスト
30年を超えるJリーグの歴史の中でも、中田英寿ほど「高卒ルーキーらしくない」選手はそういない。残した成績もさることながら、どのような状況下でも動じないメンタルの強さはプロ1年目の選手の中でも図抜けていた。
韮崎高等学校に在学していた時から、Jリーグ各クラブのスカウトは中田の活躍を追っていた。当時のJリーグ全12クラブのうち11クラブが争奪戦を展開していたことからも、中田がいかに別格であったかが分かる。同時期に12クラブ中10クラブがオファーを出していた松田直樹の存在感も凄まじいものがあるが、中田はさらにその上を行っていた。
1995シーズン、中田は韮崎高等学校からベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)へと加入する。平塚が海外からオファーが来た際の移籍許可を確約していたことが加入の決め手となった。18歳にして、今後のキャリアのビジョンが明確に定まっていたことがうかがえる。
意外なことに開幕スタメンは逃しているものの、中田はシーズンを通して安定した活躍を披露。“キラーパス”と称された切れ味鋭いラストパス、当たり負けしないフィジカル、ピッチを俯瞰しているかのような広い視野をいかんなく発揮し、J1リーグ26試合に出場して8得点をマークした。つい1年前まで高校生だったという事実を忘れさせるような圧倒的な存在感を、中田は放っていた。
平塚での充実した1年は、後の伝説的なキャリアの確かな土台となった。「マイアミの奇跡」を起こした1996年のアトランタオリンピック、21歳にして日本代表の中核を担った1998年のフランスワールドカップ、そしてセリエA(イタリア1部リーグ)での眩いばかりの輝きは、主力として平塚をけん引したプロ1年目の経験があったからこそ成し得た功績だろう。
電撃引退により29歳という若さでサッカー界の表舞台から去っていった男のルーキーイヤーには、後世に語り継がれるようなインパクトがあった。