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インテルとミランの“新しい家”はいつできる?「サン・シーロを壊すことはできない」建設プロジェクトが進まない理由【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

“イタリアの恥”から“カルチョの神殿”へ

 サン・シーロが建設されたのは今から約100年前の1925年8月1日に遡る。設計者はウリッセ・スタッキーニ。あのミラノ中央駅も設計した建築家だ。

 当初はミランの所有物であったが、1935年にミラノ市が買収。1947年には、市営アリーナの意味を持つアレーナ・チビカからインテルもサン・シーロに本拠地を移転した。ここから、一つのスタジアムを2つのクラブが“共用”する長い歴史が始まる。

 1955年には2度目の改修が行われ、モダンで流線型の外観を持つ“セコンド・アネッロ”で有名な2階席が増設された。

 1979年にはミランとインテルで活躍し、1934年と1938年にイタリアに2度のワールドカップ(W杯)をもたらしたペッピーノことジュゼッペ・メアッツァの名が冠される。そして、1990年W杯開催のために3階席とらせん状の柱、屋根が設けられた。

 当時は、屋根でピッチが影になるため芝生の枯れが目立ち、”イタリアの恥”と揶揄されたが、イタリアで最大の7万5817人を収容可能とするスタジアムは、まさに“カルチョの神殿”の別称にふさわしい、唯一無二の存在感を放っている。

 新スタジアム建設プロジェクトは新型コロナ・ウイルスの影響で遅れをとり、ミラノ市との議論が続いている。特にサン・シーロの解体については、市当局や市民から反対意見が多く出た。

 そんな中で、Populous社とManica-Cmr Sportium社が発表したデザインが最終選考に残り、最終的には司教座大聖堂の意味を持つ前者の「カッテドラーレ」の名を持つスタジアムのデザインが採用される。デザインは決定したものの、依然としてミラノ市当局との間で進展は見られず、昨年8月、早くもインテルとミランの共同計画は頓挫する。

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