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小社主催の「サッカー本大賞」では、4名の選考委員がその年に発売されたサッカー関連書(漫画をのぞく)を対象に受賞作品を選定。選考委員の一人でもあるフランス文化研究者、作家、文芸批評家の陣野俊史氏にサッカーにまつわるあれやこれやに思いを巡らせてもらう連載「ゲームの外側」第一回はティエリ・アンリについて。
(文:陣野俊史)
「ティエリ・アンリがいる限り、あと10年、フランスはFWに苦しまないで済みますね」
【写真:Getty Images】
あれは、たぶん20世紀の終わり頃のこと(だいぶ記憶が曖昧だが)。1998年、フランスが地元開催のワールドカップで優勝し、EURO(2000年)でも優勝した、後だったか、前だったか。
東京の白金台にある大学で、フランス文化論のような授業をやっていたところ、ある男子学生が「ティエリ・アンリがいる限り、あと10年、フランスはFWに苦しまないで済みますね」と、唐突に話したことを覚えている。
前後の脈絡もなく、FWとしてのアンリを礼賛する学生は、担当教師である私の機嫌を取りたかったわけでもないと思う。
アンリがいれば、フランスの攻撃は「あと10年大丈夫」、という太鼓判がなぜ彼の口から放たれたのか、その学生がどれくらいフランスのサッカーのことを知っているのか、フランスだけではない、ヨーロッパのサッカーにどれくらい通暁しているのかさえ、さっぱりわからず、当然のことだが、4半世紀前の日本のサッカー事情はさほど芳しいものでもなく、Jリーグは行われているものの、そのことと、海外サッカーとはあまり交わらない、というか、サッカー熱がまだ足りていないというか、そんななか、ティエリ・アンリは特権的な名前として、彼から私へ伝染したのだ。
いや、そうでもない。それだけでもない。もう少し書かねば。その学生とはそれきりの交流だったわけではない。
その学生が学生を辞める、と言い出したのだ。理由は、付き合っている彼女が妊娠し、のみならずすでに出産したので、悠長に大学を出て(そのとき、彼は3年生だったはず)家庭を築く、といった余裕がすでになくなっていて、生まれ故郷の札幌に戻り、妻子を養う仕事に即つくのだ、と宣言した。
いま、歯科医として生活している彼が元気にしていることは余計な情報として付け加えておくことにして、そのときの私にできることと言えば、ウチで使わなくなったベビーカーを送ることくらいだった。
ベビーカーにはAタイプとBタイプがあり(たぶんいまもある)、Aタイプというのは、赤ん坊を横に寝かせておく――つまり生まれたての数カ月しか使わない――もので、Bタイプは縦にして赤ん坊を抱っこしたり背負ったりするもの。
AもBもなぜかウチに残っていたので、Aタイプを所望する彼に急ぎ宅配便で送ったことを覚えているのである。
フランスサッカー協会(FFF)のHPで確認したから、たぶん間違っていないと思うが、ティエリ・アンリは1977年8月17日生まれ。利き足は右。代表としての初得点は、1997年10月11日の南アフリカ戦で、2対1で勝利した。
123回、代表としてプレーした。体重83キロ、身長188センチ。
所属したクラブを代表的なものだけ挙げれば、モナコ(93~98年)、ユヴェントス(99年1~7月、短い!)、アーセナル(99年8月~2007年6月)、バルセロナ(07年7月~10年6月)、その後、アメリカのニューヨーク・レッドブルズに数年在籍し、途中一瞬だけアーセナルに復帰したこともあったような気がするが、最終的には、ニューヨークで、2014年に現役生活を終えている。
やっぱりアーセナルの選手というイメージが強いかな。
いま、この後の話の展開上、フランス代表としての成績に話を絞るのだが、代表としての勝利数74、出場時間9094分、51得点。ちなみに、代表としての最後の試合も、なぜか南アフリカ戦で、2010年6月22日の日付があり、1対2で南アフリカに敗れた試合だ。
そう、あの、呪わしき南アフリカで行われたワールドカップでの試合。
ブブゼラの喧騒と一緒で、フランス代表「贔屓」としてはあまり思いだしたくない試合であり、レイモン・ドメネク監督と選手たちの離反が決定的となり、グループリーグで敗退、フランスサッカー史に汚点を残した大会だった。
ここで何が言いたいかというと、アンリは、じつに1997年から2010年まで、フランス代表として14年間プレーしたのであり、「あと10年大丈夫」という根拠なき断言は、立派に立証されたことになる。
そのアンリは、現役引退後、何をしていたのかと言われれば、指導者として生きている。
ひとつ衝撃的だったのは、数年前のコロナ禍の頃、モントリオール・インパクトの監督を務めていたアンリが鬱病を告白したこと。
アンリへの興味が静かに再燃したことを覚えている。
そしてそのティエリ・アンリが、パリ・オリンピックの後、フランス代表エスポワールの「監督」を辞任した、というのが今回のこのコラムのテーマである。
そもそもフランス代表エスポワールとは何ぞやというと、エスポワール=「希望」の年齢の世代で、つまりA代表よりちょっと若い代表のこと。
日本だとオリンピック代表がこれに相当する。つまりU-21。アンリがエスポワール代表の監督を任されたのは、2023年の夏。
したがって、このポストにいたのは、わずかに1年、ということになる。契約は2025年までだった。オリンピックの成績は周知のように準優勝。辞める理由なんかない(まあ、決勝の相手スペインが強すぎ、3対5というのもよく頑張った、と褒められこそすれ、非難の対象にはなっていないはず……。)。
試合は、予断を許さない白熱したものだった。フランスが先制するも、地力に勝るスペインは徐々にゲームを支配し、前半が終わったところで、1対3でスペインがリード。
後半はしかし、あのカタール・ワールドカップの決勝を思わせる(というのは、やや言いすぎか……)フランスの粘りで、90分を超過したアディショナルタイムにジャン=フィリップ・マテタが決めて3対3の同点。
延長戦はスペインがやはり加点し、100分にセルヒオ・カメロが決めて3対4。試合終了直前にも同じくカメロに決められて、3対5と屈した。
ボール支配率もフランスがリードしていたし、枠内シュートもスペインを凌いだ。これ以上、何を望むというのか! 勝利か? そんなものは犬にくれてやれ。
アンリの退任理由は、「個人的な理由」としか語られていない。たぶんアンリがそう言ったのだと思う。ここは、ティエリ・アンリ自身の言葉が欲しい。FFFじゃなくて。
エスポワールの監督を辞めた後、DAZNのコンサルタントに就任するという噂まであったのだ(可能性はほぼなかったらしいが)。アンリの言葉を直接、引いておく。
「私はピッチが好きだ。機会を待っていた。私はピッチにもっとも近いところに居続けるために、私がやるべきことをやった。人の意見を聞いてみると、私を感動させるものが少し欠けていたのだそうだ。まったく以前と同じように」(『ルモンド』紙、2024年8月19日)。
アンリを感動させるものがほんの少しばかり欠けている――だから、監督を辞める、というあたり、じつにアンリらしい。
地位に恋々としない。魂を動かす何かを求めて、移動する。それは何か、もちろんアンリにも(いまのところは)わからない。たぶん。
ただそれは彼を感動させるものでなければならない。そしていまのところ、私たちはこの言葉を信じるしかない。指導者としてのアンリはどうなのかって? 「あと10年大丈夫」とは、とても言えないのだけれど。
(文:陣野俊史)
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陣野俊史(じんの・としふみ)
1961年生まれ、長崎県長崎市出身。フランス文化研究者、作家、文芸批評家。サッカーに関する著書に、『フットボール・エクスプロージョン!』(白水社)、『フットボール都市論』(青土社)、『サッカーと人種差別』(文春新書)、『ジダン研究』(カンゼン)、共訳書に『ジダン』(白水社)、『フーリガンの社会学』(文庫クセジュ)がある。その他のジャンルの著書に、『じゃがたら』『ヒップホップ・ジャパン』『渋さ知らズ』『フランス暴動』『ザ・ブルーハーツ』『テロルの伝説 桐山襲烈伝』『泥海』(以上、河出書房新社)、『戦争へ、文学へ』(集英社)、『魂の声をあげる 現代史としてのラップ・フランセ』(アプレミディ)など。
【了】