なぜ欧州で指導者を志すのか。岡崎慎司がたぎらせる反骨精神
「日本の選手たちが次々にヨーロッパへ挑戦してきていますよね。そのなかで日本に一度帰ってから再び海外へ、といった甘い気持ちで彼らを超えていけるのかと考えると、僕ももっともっと挑戦しなければいけないと思えた。ヨーロッパに挑む上での苦労は知っているだけに、日本で一度でも環境に甘えてしまったら、これまで海外で味わってきた悔しさを、おそらく忘れていってしまうだろう、というのがあったので」
ここでも「挑戦」の二文字が見え隠れする。負けず嫌いの魂が色濃く反映されている、とつけ加えてもいいだろう。胸中にこの反骨精神をたぎらせながら、岡崎は己を信じながら愚直に突っ走ってきた。
兵庫県の強豪、滝川第二高等学校サッカー部では入学時の4軍から、エースにしてキャプテンへはい上がった。卒業を前にして地元のヴィッセル神戸、そして清水からオファーが届いたなかで後者を選んだ。当時の監督で、いまも恩師と慕う黒田和生氏が難色を示したが、岡崎が「レベルの高いチームでプレーしたい」と押し切った。
ルーキーイヤーの序列は、8人を数えたフォワード陣で8番目。当時の長谷川健太監督(現名古屋グランパス監督)からサイドバック転向を打診された年もある。それでも、4年目の2008シーズンから2010シーズンまで毎年2桁ゴールをマーク。2011年1月にはブンデスリーガ1部のVfBシュツットガルトへ移籍した。
北京五輪後の2008年9月に初招集された日本代表では、岡田武史、原博実(監督代行)、アルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ、ヴァイッド・ハリルホジッチ、西野朗、そして森保一と7人の代表監督のもとでプレー。国際Aマッチで通算119試合に出場して50ゴールをマークしている。
日本代表の歴史上で、ゴール数が50を超えている選手はわずか3人。75ゴールの釜本邦茂、55ゴールの三浦知良に次ぐ歴代3位にランクされる存在になった理由にも、岡崎ならではの思いが込められていた。