ガスペリーニに影響を与えた2人の指導者とは
【写真:Getty Images】
その男の名は、ジョバンニ・ガレオーネ。1941年1月25日、ナポリの生まれだ。選手としては、下部リーグでのプレーに留まり、大成することはなく、監督としても、大きな仕事は成し遂げられなかった。しかし、彼のサッカー哲学は、イタリアサッカーに足跡を残した3人の監督に影響を及ぼした。その3人は、マッシミリアーノ・アッレグリ、マルコ・ジャンパオロ、そしてガスペリーニだ。
パスをつないで攻撃を構築する恩師のスタイルは、ガスペリーニのサッカー理念を変えた。ガスペリーニが、ペスカーラに移籍した85/86シーズンは、17位に終わり、セリエC1降格となるが、パレルモの破産により、なんとかセリエB残留にとどまった。その86年夏にやってきたのが、前シーズンまでSPALで3季に渡り指揮を執っていたガレオーネだった。チームは、セリエC1で戦うための戦力を想定し、若い選手を中心に構成されていたにもかかわらず、望外のセリエA昇格を成し遂げた。
まさに、奇跡の昇格だった。ジェノアを指揮していた当時のガスペリーニは、恩師をこう評している。「スピードとプレーのクオリティーを高めることの重要性を知らしめ、常に攻撃的で、調和したプレーが可能な組織力を備えるという考えを持っていた」と語る。「彼の哲学を自分なりのやり方で自分のものに取り入れた。監督を始める前、私は、私だけのものとなるように努力した。自分の指導法を確立させるため、研究し、模倣して、修正を行った。指導を行う上で、本当に大切なことは、自分自身の指導論を築き上げることである」と語り、研究を突き詰め、個々の指導スタイルを持つことの重要性を説いている。
そして、もう一人、それまでのスタイルを改心させた人物がいる。90年代にアヤックスを指揮して欧州を席捲したオランダのルイ・ファン・ハールだ。ガスペリーニは、「90年代の半ば、ユーベのプリマベーラを指揮していた頃だった。私は、4-3-3を採用していたが、当時のイタリアは、90%が、(アリゴ・)サッキ(ゾーンプレスを用い、ミランの黄金時代を築いた)のスタイルを真似て、4-4-2を取り入れていた。その時、アヤックスは、3-4-3を使い、選手たちは躍動していた。彼らのプレーを目にし、私は3バックを取り入れたんだ」と、オランダ人監督のスタイルを模倣したことを打ち明けている。
さらに、「相手チームが2トップと戦う際に、このスタイルがやれると確信した。後方から組み立てる時が問題で、DFがワイドに広がることを私は指示している。少なくとも、3バックのワイドに広がる2人のうちの一人は、サイドバックを経験しているプレーヤーでなければならない。なぜなら、サイドバックは、組み立てに長けていて、インターセプトにも優れるからだ。一方、プレーメーカーは必要不可欠な選手ではない。あらゆるボールを輝かせるということは求めていない。求めるのは5メートルの短い距離のパス。それならば、私にだってできるだろう」と3バックに欠かせない条件を明かしている。
「2-0よりも、4-2での勝利を欲する」という超攻撃的なサッカーを標榜するガスペリーニのスタイルは、ガレオーネとファン・ハールのスタイルを研鑽し、自分のものとして作り上げたものであった。一時は、アタランタからの退任も噂されたが、クラブがさらなる補強を約束することで、続投の見通しが立った。来季は3シーズンぶりに欧州CLの舞台にも満を持して返り咲く。アタランタとガスペリーニの快進撃はまだ終わらない。
(文:佐藤徳和)
【関連記事】セリエA時代の中田英寿も被害に…。欧州日本人選手を干した歴代監督6人
98年、中田英寿。激動の時代、ナカタはなぜ至高の活躍を見せ急速に引退へと向かったのか【セリエA日本人選手の記憶】
美しすぎて胸キュン!? 美女サッカー選手。まるでモデルな女子選手たち
【了】