異色の部活動のルーツは前田高孝監督の波乱万丈の半生に…
「入学する前から一応は知っていましたけど、こんなに細かく仕事があるのか、といった点にはびっくりした部分もあります。分析だけでなく、他にもいろいろな班がある点も含めてですね」
他校と一線を画すサッカー部の活動形態は、波瀾万丈に富んだ前田監督の半生とリンクしている。
滋賀県出身の前田監督は草津東高でFWとして活躍し、卒業後の2004年に清水エスパルスに加入した。しかし、左膝に大怪我を負った影響もあり、出場機会を得られないまま2年間で退団した。
2006年にはアルビレックス新潟シンガポールでプレーしたが、Jリーグでプレーしたい思いが高じて帰国。合同トライアウトを受けるもJクラブからのオファーは届かず、2007年には関西サッカーリーグ2部(当時)のMIOびわこ滋賀(現JFLレイラック滋賀)でプレーした。
しかし、コンディションも万全だったなかで、勝負をかけたいという思いが頭をもたげてくる。一念発起して渡った場所はドイツ。知人の知人にドイツ語訳してもらった履歴書だけを手に、プロテストを受けさせてほしいとアポイントなしで訪問し続け、5部クラブとの契約を勝ち取った。
2007/08シーズンのウインターブレイク中に、さらなる高みを目指してルーマニア2部クラブのプロテストを受けた。しかし、清水時代の古傷を再発させたのを契機に、プロ選手だけでなくサッカーそのものを断念。2008年3月に帰国を選んだ当時の心境を、前田監督はこう振り返る。