ジダンと『レキップ』の関係。ユベントス時代は…
――それでも「中心」をジダンに据えたジャケは1998年のワールドカップでフランスを優勝に導きます。ジャケで印象的なのはサッカーの内容というより、むしろフランスのスポーツ紙『レキップ』との対決で、ジャケの『レキップ』への怨念はすさまじいものがあります。『レキップ』は誰に対しても批判的なメディアなのでしょうか。
「協会と代表に対しては常に批判的な立場を貫いています。決して翼賛的にはならない。カントナを切ろうが切るまいが批判され続けるジャケにしてみれば、『ごちゃごちゃ言わずに黙って見ていろ』と。『レキップ』はディディエ・デシャンに対しても、選手選考などについて批判している。ちなみにジダンと『レキップ』の番記者との関係性は悪くなかったようですが」
――フランスワールドカップはジダンの退場、ロナウドの胃痙攣、ジダンのヘディング2発など、今思えばトピックに事欠かない大会でした。そんな中、準決勝クロアチア戦のリリアン・テュラムの2ゴールに結構な紙幅を割いています。これは意図的ですか。
「あれでも抑えたくらいです。テュラムはすでに10冊以上書籍を出していて、『テュラム研究』で一冊書けてしまうほど(笑)。そのほとんどが人権、教育に関する書籍で、小さい版元から切れ目なく出しています。今はサッカーに関わっていませんが、息子のマルクスとケフランがともにフランス代表というのが面白い」
――ジダンに話を戻すと、ボルドーからユベントスに籍を移し、この頃からいよいよ世界に知れ渡っていく印象があります。ただ、ユベントス時代の描写は少なく、むしろ相棒のアレッサンドロ・デル・ピエロ、フィリッポ・インザーギを多く語っています。なぜでしょう。
「熱意がなかったんですよ。代表での活動のほうが圧倒的に目立っていたことも関係していますが。ただ、ジダンはユベントスでフィジカルコーチのアントニオ・ピントゥスと出会い、レアル・マドリードの監督時代に彼を重用しています。また、日本で行われたトヨタカップで自身のアイドルだったエンツォ・フランチェスコリと対戦している。それにしても、こちらの熱が入っていない(笑)」
――ユベントス時代には、ドーピング問題もありました。この背景には、試合数の増加による肉体疲労があり、やはりジダン周辺のトピックを辿っていくと、自ずとサッカー界全体の傾向が掴めます。
「裁判での判事とのやり取りがジダンの口下手ぶりを表していますよね。ともに50代で亡くなったジャンルカ・ヴィアッリとシニシャ・ミハイロビッチの死因にドーピングが関与していたと取り沙汰されていますが、推測の域は出ていない。影響力が大きいデシャンあたりが口を開かない限り、この問題は進展を見せないのではないでしょうか」