J2でプロキャリアをスタート。昨年末に告白した病気
「相手のボールを刈り取る力、連続をしてボールを奪う、味方にボールを奪わせるという守備の部分での能力を随所で発揮してくれた。攻撃の部分でも起点になって守備から攻撃へのつなぎ役になるなど、普段から鹿島で見せてくれているプレーを代表でも発揮してくれたと思っている」
森保監督は8日の代表メンバー発表会見でこんな言葉を残している。
「今回選んだ26人の他にも、フルメンバーと呼べる力を持っている選手はまだまだいる」
直後に前述した伊藤、そして川辺駿とボランチの選手が相次いで怪我で辞退した。そのなかで森保監督が言及したフルメンバーの候補者リスト、しかもその上位に名を連ねていたからこそ、佐野本人をして「とにかく驚いた」と言わしめた追加招集が実現した。
もっとも、佐野はA代表どころか、年代別の日本代表でプレーした経験もなかった。もっとつけ加えれば、誕生日の2000年12月30日よりも2日遅く生まれていたら、つまり21世紀に産声をあげていたら、2001年1月1日以降に生まれた選手が対象になるパリ五輪世代に名を連ねていた。
岡山県津山市で生まれ育った佐野は、3年連続でインターハイと全国高校サッカー選手権出場を果たした米子北高をへて、2019シーズンからJ2のFC町田ゼルビアに加入。2年目の2020シーズンには、累積警告で出場停止だった1試合を除いて41試合で先発出場を果たしている。
名前をもじって「佐野回収」と呼ばれたボール奪取力は、数字の上でも証明された。昨シーズンのJ2リーグで、90分間の平均ボール奪取回数で1位となる20回を記録したのが佐野だった。
しかし、右肩上がりの軌跡は6月5日の大分トリニータ戦を最後にこつ然と途切れる。開幕から20試合連続で先発フル出場していた佐野は、10月23日の最終節までベンチにすら入らなかった。
町田からは疲労性腰痛と発表されていたが、実はオーバートレーニング症候群も患っていた。鹿島への移籍が発表された昨年末。町田の公式サイトで、佐野は感謝の思いを込めながら病気を告白した。