【独占インタビュー】フットボール批評オンライン 特集記事
2023年5月24日、宮市亮は301日ぶりの復帰を果たした。右膝前十字靭帯断裂という選手生命の危機にさらされる大怪我を負った宮市亮は、なぜピッチに帰ることができたのだろうか。18歳で単身海を渡り、何度も苦しい思いを味わった男は、横浜F・マリノスで新たな価値観を見つけていた。(取材・文:ミムラユウスケ/本文5160文字)※全文を読むには記事の購入が必要になります。
宮市亮を襲う不安「再び歩けるようになるのか?」
怪我を負ってからも、日産スタジアムはずっと宮市亮の戦場だった。
「僕らが試合前のウォーミングアップへ出て行くときに上っていくあの階段。リハビリではあそこをひたすら、上り下りしていました。普段は登るときに何でもないような階段ですけど、怪我をしてからは一つの段差が、本当に怖くて仕方がなかったし、当初は登るだけで足が痛みました。いつかまた日産スタジアムでプレーするぞ、なんて考えられるような状況ではなかったです。
『踏み外さないように、慎重に登らないといけない』。それだけを考えていました」
昨年7月の日本代表の韓国戦で宮市が右ひざに負った前十字靭帯の断裂という怪我が、復帰までに長い時間を要する大怪我であることはよく知られている。
一方で、意外と語られていないのが、怪我に伴う強烈な痛みである。とりわけ、術後の2~3日間は究極の選択を迫られる。痛みから逃がれるのか、それとも……。
「術後の麻酔が切れると、痛みがものすごいんですよ。足に穴を開けたりしているので当然ですけど……。その痛みを抑える薬は投与してもらえるのですが、薬が効けば痛みがなくなる代わりに、(自分の場合には)吐き気が出てきます。それをわかった上で、『今は痛みに耐えられそうもないから、吐き気のする薬を投与してもらおう』みたいに考えます。つまり、吐き気を取るか、痛みを取るか、究極の選択を迫られるのです」
そんな状態だから、時間の経過もろくにわからない。痛みか吐き気に常に悩まされており、時計を確認しようとする気力すらわかないからだ。
「食事が運ばれてくるタイミングで、かろうじて『あぁ昼食の時間か』みたいにわかる感じです」
ただならぬ痛みは最初の2~3日で収まるが、その後も1か月程度は痛みがついてまわる。
「まず、手術で切ったところがずっと痛みます。それから、ベッド上でのリハビリを終えて、初めて地面に足を置いたときに、それまで巡りが悪かった血がブワっと下に流れる感覚があるのですが……これが半端ではない痛みです。前十字靱帯の手術をした人ならほとんどの人が感じるみたいですけど。
そんな状態が1ヶ月は続くから、不安になりますよね。『再び歩けるようになるのか?』とか、『そもそも、この痛みが消えるのかな?』と」
しかも、宮市は膝の十字靱帯を断裂するのはこれが3度目だった。復帰までの苦しみがどれほどのものか痛いほど理解していた。
「僕はもう、これで辞めることにしますわ」
だから、宮市は断言する。
「もし、自分がプロではなくアマチュアの選手だったら、あの怪我をした時点で100%、引退していました」
その言葉に偽りはない。ケガをした直後に、兄のようにしたっている香川真司から電話がかかってきたときに、こう伝えたほどだった。
「僕はもう、これで辞めることにしますわ」
電話口で戸惑う香川の様子が感じ取れた。香川が気を使って電話をしてきてくれているのは宮市も理解していたが、そう言わずにはいられなかった。心身共にそれほどまでの大きなダメージをもたらすのが、この怪我なのだ。
それでも、香川から何度も前向きな言葉をかけられた。
「オマエのハートの強さがあれば、もう一度、復帰できる。俺は信じているぞ」
「大変かもしれないけど、まずはやれるだけリハビリをやってみろよ」
もちろん、そうやって励ましてくれたのは香川だけではない。自分の周りにいる選手、スタッフなどからも声をかけられた。そして……。
「僕はそれまでにも怪我が多かったので、『もう一度、大怪我をすることがあれば引退しよう』と心に決めていたんです。だから、韓国戦で怪我をしたときには『ついに、このときが来たか』と、あのピッチ上で踏ん切りをつけた感じでした……。
ただ、ファンの人たちから『戻ってくるのを待っていますよ』とか『もう一度プレーする姿が見たいです』とかメッセージをもらって。これだけ怪我を繰り返してきた選手にも、そんな風に言葉をかけてくれるのかと感じて。それもあって『もう一回ピッチに立って、自分のパフォーマンスが戻らないのならやめよう』と考えて、リハビリに取り組めるようになりました」
なぜ、横浜F・マリノスのファンからの声が響いたのか。それは、このクラブに来て、やっと見つけたものがあったからだ。
マリノスで「見つけたもの」が何なのかについて理解するためには、かつて所属していたアーセナルでの苦悩から振り返られないといけない。
岡田武史には見抜かれていた
2013/14シーズンのことだった。マリノスや日本代表の監督としても活躍した岡田武史が当時のアーセン・ベンゲル監督と面会に来たことがあった。その際に、宮市が出場したアーセナルU-23の試合を視察した岡田からこう言われた。
「オマエは全く楽しんでプレーしていないな。すごく良い環境にいるのに、このままではもったいないぞ」
宮市はハッとさせられた。
「あの言葉は今でも覚えていますね。『あぁ、見抜かれてしまっている』とドキッとしましたから」
当時のアーセナルでよく行なわれていたのが、ピッチの縦幅が正規の3分の2から半分程度のエリアで行なわれる11対11のミニゲームだった。このミニゲームの特徴はピッチの狭さだけではない。各選手が許されるのは最大で2タッチまでというルールや、ある選手が2タッチしたあとには1タッチでパスを出さないといけないというようなルールがあった。スピードを武器にしていた宮市にとって、あまりに厳しい制約だった。
「そんな感じなので、ドリブルをする機会なんてありません。ピッチも狭いし、『自分はスペースがあってこそ良さが出せるような選手だ』と感じて、あの環境を楽しめませんでしたね。
そして、いつの間にか、自分の長所も見失っていました」
当時の宮市が考えていたのはこんなことだ。
「オレもエジルやロシツキーみたいにテクニックのある選手だったら良かったのにな」
「自分のスタイルとは合わないのかもしれないな」
そうやってネガティブな考えが頭をめぐるようになっていたから、いつしかパスを受けるのが怖くなった。パスを受けたとしても、今度はボールを奪われるのを恐れるあまり、視界に入った選手へとすぐにパスを出していた。足下のテクニックが売りの選手のマネをしようとして、ミスをすることもあった。
いずれにしても、それでは自分の良さをアピールすることなど到底できない。
「アーセナルのプレースタイルに合わせようとして、自分の良さを見失い、心のバランスは崩れていきました。『なんでオレはあの環境で楽しめなかったのか』という悔しさみたいなものは今もすごくあります」
そこから一回りも二回りも成熟した現在の宮市であれば、限られたスペースでドリブルをしかける余地がなかったとしても、自身の武器であるスピードを活かすために、ディフェンスラインの裏をめがけて、何度も飛び出していくだろう。
だが、あの頃はそんな風には考えられなかった。当時は自分のメンタリティーを上手にコントロールできなかったのだ。
宮市亮が導き出した自分なりの正解
「そもそも、僕はエゴイスティックなタイプではないと思うのですが、ヨーロッパにわたってから『エゴイストにならないといけない』という空気を感じて、無理にエゴイスティックに考えようとしていました。例えば、当時はゴールを決めれば、『俺がチームのためにゴールを決めてやったんだ」とか『俺の力でチームを勝たせてやったんだ』と考えるようにしていました。
でも、それが自分にとってしっくり来た考え方だったかというと……そうではないんです」
しばしば、誤解されることがある。
ヨーロッパで成功する選手は「何がなんでも自分でゴールを決めてやる」と考えるようなエゴイストばかりだから、成功するためにはエゴイストとして振る舞えるようになることが正解だと思われがちだ。
しかし、必ずしもそうではないと現在の宮市は考えている。
「何が正解なのかは、その人の性格や考え方によると思います。ゴール前でパスすることによってゴールにつながるなら、それでいいわけですから。エゴイスト的な考えがしっくりくる性格ならエゴイストとして振る舞えばいいし、それがしっくりこないなら別のやり方がある。
要は、自分に合うやり方や考え方を見つけることが大事だと思います」
アーセナル時代の苦い経験があったからこそ、宮市は思考を深めていった。自分が本当に望むことは何なのか、と。その過程で、スピードについての認識も変わった。
「僕が若いときには、スピードというと『攻撃で活かすもの』というイメージがありました。でも、今は違います。スピードは守備でも武器になるんですよ! それは僕が学んだことですね。
スピードがあればプレスも速くかけられますし、自陣に戻るのも早いですよね。以前はわからなかったですけど、ヨーロッパで長くプレーしたことで、守備で貢献したときにもスタジアムも沸くのだと気がつけましたし。ボールを奪ったときもそうだし、相手のカウンターを受けそうな時に自陣に素早く戻って、それを防いだときにもスタジアムは沸きますから」
横浜F・マリノスで見つけた新たな価値観
ここまで読めば、もうわかるはずだ。宮市はプロになってから10年以上戦い続けてきたことで、ようやく、自分が望むスタイルや生き方に気づくことができた。
「結局、僕が今しっくりきている考え方というのは、『自分はチームの中の1ピースで、チームのために貢献したことが回り回って、自分に返ってくる』というものです。ゴールの前にはアシストとなるパスがあって、そのパスの前には色々な選手の働きがあって……『ゴールは1人で決められるものではない』と今では実感しています。そのように自分にしっくりくる考え方をようやく見つけられたのです」
そして、それを見つけられた大きな要因がマリノスに根づくカルチャーだった。
「日本に戻ってきて、自分のゴールではなくても心から喜んでいる選手の姿を何度も見ました。例えば、水沼(宏太)選手などは僕より年上の選手ですけど、他の選手の活躍を自分のことのように喜ぶ姿は本当に素敵だなと感じています。
それに、マリノスでは『ファミリー』という言葉がよく使われますけど、裏方のスタッフをはじめとして色々な人が僕たちのために働いてくれますのをよく見てきましたから」
痛感したのは、現在の久里浜にある練習場が完成するまでの間のスタッフの苦労だった。
「今のような立派な練習場ができるまでは、毎日、トラックで荷物を運んでくれるスタッフがいました。練習場だけではないです。試合を運営するスタッフの人たちが汗を流す姿も見ることができて。ヨーロッパにいた時はそういう人たちと接する機会はあまりなくて、自分がピッチ上でプレーすることだけを考えていました。
でも、僕はマリノスに来て、クラブ全体の一体感を感じる機会が増えたんですよ」
“あの階段”を登るのが楽しい
何故、ファミリーのような一体感の価値に気がつけたのか。そこには明確な理由があると宮市は考えている。
「キャプテンの喜田(拓也)選手は『自分のためにサッカーをすることも大事だけど、チームのために頑張ることが、いずれは自分のためになる』と常に言っていますけど、それがマリノスというクラブの持つ雰囲気なんですよ!
クラブ全体として、一体感を持ちやすい環境がここにはあります。そして、みんなで同じ方向を向いて、何かを成し遂げることがいかに素敵なことなのかは、去年優勝したことで僕にもよくわかりました」
マリノスに来たことで、ヨーロッパでプレーしていたときには気がつけなかった、自分が本当に楽しいと思えるサッカー観がどのようなものかに気がつけた。エゴを前面に出したサッカーではなく、クラブにかかわる人たちも一体となって戦おうとするサッカーが、自分の求めているものだ、と。
そして、その発見が、大怪我をしたら引退しようと覚悟をしていた宮市にとって、リハビリをする上での大きなモチベーションとなった。
こうして大怪我から復帰してからは、自分の目指していたサッカーを見つけられた喜びと楽しさに包まれている。
「今はただ、サッカーが楽しくて、勝手に体が動く感じなんです」
だから、宮市は、“あの階段”を登るのを楽しいと今は感じている。
ホームゲームの日に日産スタジアムロッカールームからピッチへと出ていく階段を登れば、ウォーミングアップが始まる。そして、そのウォーミングアップが、ファミリーが一体となって戦うマリノスの試合への想いを高めてくれるからだ。
ピッチに帰ってきた宮市にとって、険しかったはずのあの階段は、自分の目指していたサッカーの始まりを告げる花道となっているのだ。
(取材・文:ミムラユウスケ)