17年間こだわり続けたプロの矜持
改めて振り返ると、お祭り男・槙野の存在感が広く知られるようになったのが、サンフレッチェ広島ユースからトップに昇格した2006年頃からだろう。同年にはAFC・U-19選手権(インド)に参戦。最終ラインの統率役を担うとともに、2007年U-20W杯(カナダ)出場権獲得の原動力となった。
このチームには内田篤人、安田理大、柏木陽介、梅崎司、森重真人、香川真司らのちに日の丸をつける面々がズラリと揃っており、コーチを務めていたのも森保一監督だった。元気で個性的な集団にあって槙野のコーチング力はひと際光っており、「目立ちたい」「有名になりたい」「サッカーの地位を高めたい」といった野心を前面に押し出しながら、彼はプレーしていたのだ。
「プロ1年目からカズ(三浦知良)さんや中山(雅史)のように沢山の人の心を動かせる選手を目指してきました。『槙野のやってることは面白いよね』と。サッカー以外の入口を作って多くの人を楽しませたかったし、エンターテイナーとして何ができるかを考えて記録と記憶を残そうと思ってやってきました」と槙野自身も17年間こだわり続けたプロの矜持を今一度、口にした。
それが、数々の試合でのタフな守備、DFながらゴールを奪うド派手な活躍、2007年U-20W杯で見せたビリーズブートキャンプ、広島時代に見せた魚釣りなど多種多様なゴールパフォーマンスにつながったようだ。
本人としては、浦和退団が決まっていた昨年12月の天皇杯決勝・大分トリニータ戦の決勝弾がサッカー人生で最も忘れられない一戦だという。そういった重要局面で大仕事をしてしまうのが槙野というお祭り男だ。勝負師とエンターテイナーという両面を併せ持っていたからこそ、彼はサッカー界随一の知名度と人気を誇ったのだろう。