日本ではプレーヤーと観客に一枚の壁がある
またスハルト政権では新米・反共路線で民主勢力や文化人を弾圧し、人々の鬱憤が溜まっていた。そこにサッカーが結びつき、今日の暴力的なインドネシアサッカー界を生み出しているのだ。
ここまで様々なウルトラスの言葉を並べてみたが、世界では、歴史、文化、宗教、民族といった多種多様な要因が複雑に絡み合っていることがわかる。ウルトラスはそれらを全てスタンドで表現、表明する。また、「何もしないということは、れっきとした政治行動なのである」(p328)というように、ウルトラスが存在するだけでメッセージなり得る。
つまりウルトラスも「主役」なのである。
対して日本ではサポーター、観客と一生懸命プレーしている選手を応援する、というスタンスを強く感じる。
遡れば一高三高定期戦、早慶定期戦のように、学校対抗でスポーツが大きく盛り上がることは珍しくない。しかし、そこにはプレーヤーと観客に一枚の壁があるのではないだろうか。
ならば、プレーヤーとはどんな存在なのだろうか。本書を読み、1人の現役プレーヤーである私は「代弁者」ではないかと考えた。もちろんプレーヤーとしての実際にプレーする「主役」ではあるが、ウルトラス、サポーターの存在を「代弁」する役割も担っているのだ。
そう気づいた時に私自身のプロとしての意識が明らかに変わった。