背番号4
【写真:Getty Images】
フランスW杯:井原正巳(横浜マリノス)
生年月日:1967年9月18日(30歳)
個人成績:3試合0得点0アシスト
戦績:グループステージ敗退
日韓W杯:森岡隆三(清水エスパルス)
生年月日:1975年10月7日(26歳)
個人成績:1試合0得点0アシスト
戦績:ベスト16
ドイツW杯:遠藤保仁(ガンバ大阪)
生年月日:1980年1月28日(26歳)
個人成績:出場なし
戦績:グループステージ敗退
南アフリカW杯:田中マルクス闘莉王(名古屋グランパス)
生年月日:1981年4月24日(29歳)
個人成績:4試合0得点0アシスト
戦績:ベスト16
ブラジルW杯:本田圭佑(ACミラン)
生年月日:1986年6月13日(28歳)
個人成績:3試合1得点1アシスト
戦績:グループステージ敗退
ロシアW杯:本田圭佑(パチューカ)
生年月日:1986年6月13日(32歳)
個人成績:3試合1得点1アシスト
戦績:ベスト16
日本代表で背番号4は、代々チームの柱となる選手たちに受け継がれている。日本の初出場となったフランスW杯で背番号4を着用したのは、「アジアの壁」と呼ばれた井原正巳だ。「ドーハの悲劇」を経験したこのDFは、その4年後にキャプテンとして日本をフランスW杯出場に導いた。本大会で日本はグループリーグ敗退となったが、同選手の残した功績は今も語り継がれている。
その後、井原は1999年のコパ・アメリカ1999を最後にフィリップ・トルシエ監督からは声がかからず。トルシエジャパンでは、森岡隆三が後を継いで主将となった。フラット3の中央に君臨した森岡は、2000年のアジアカップ優勝、2001年のコンフェデレーションズカップ準優勝に貢献した。自国開催となった日韓W杯にもキャプテンとして臨んだが、初戦のベルギー戦で負傷。その後は出場することが出来ず、ベンチから初の決勝トーナメント進出の瞬間を眺めた。
フランスW杯から背番号4はDFでキャプテンを務める選手に受け継がれてきたが、ジーコジャパンで背番号4を背負ったのは遠藤保仁だ。日本代表最多152試合の出場を誇る遠藤だが、中田英寿や福西崇史らを擁した同代表では定位置を確保できず。ドイツW杯に臨むメンバーには選出されたが、フィールドプレーヤーとしては唯一出場機会なしに終わり、ドイツを去ることになってしまった。
同大会後に日本の心臓となった遠藤は背番号を7番へ変更。2006年8月以降は田中マルクス闘莉王が背番号4を受け継いだ。同選手はイビチャ・オシム監督の下で代表デビューを果たすと、後任として就任した岡田武史監督の下で中澤佑二と不動のコンビを形成。体を張った守備でチームを支え、南アフリカW杯では2大会ぶりの決勝トーナメント進出に導いた。
そして、同大会後に背番号4を受け継いだのが、南アフリカW杯で闘莉王と共に戦った本田圭佑だ。日本代表を牽引したこの男は、グループリーグ敗退となったブラジルW杯では全3試合にフル出場すると1得点1アシストをマーク。ロシアW杯で出場した3試合は全て20分程度のプレーに留まったが、初戦のコロンビア代表戦で大迫勇也の決勝点をアシストすると、続くセネガル代表戦では試合終盤に同点弾を決め、日本代表を決勝トーナメント進出に導いた。