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ドゥトラ【写真:Getty Images】
ギド・ブッフバルト(西ドイツ代表)
生年月日:1961年1月24日
所属クラブ:浦和レッズ(94年夏~97年)
J1通算成績:127試合出場/11得点
西ドイツ代表でイタリアワールドカップ優勝に貢献したブッフバルトは、1994年に行われたアメリカワールドカップ後に日本にやってきた。シュトゥットガルトから浦和レッズに移籍し、3年半プレーしている。
闘志を前面に出すプレーで、下位が定位置になりつつあった浦和の最終ラインを支えた。95年から2年連続でベストイレブンに選出。ファーストネームの「ギド」と呼ばれ、多くのサポーターから愛されたレジェンドだった。
97年限りで浦和を退団したブッフバルトは、カールスルーエで1年半プレーしたのちに現役引退。2002年には浦和のテクニカルアドバイザーに就くと、04年には監督に就任した。初年度の2ndステージで初のステージ優勝にチームを導くと、05年には天皇杯優勝。翌年は初のリーグ優勝と天皇杯連覇を達成して、浦和の黄金期を築き上げた。
シジクレイ(ブラジル出身)
生年月日:1997年5月13日
所属クラブ:京都パープルサンガ(99年~00年)、大分トリニータ(00年)、ヴィッセル神戸(01年~03年)、ガンバ大阪(04年~07年)、京都サンガ(08年~09年)
J1通算成績:289試合出場/26得点
1997年、24歳のときにブラジルから来日したシジクレイは、当時JFLに所属していたモンテディオ山形に加入して日本でのキャリアをスタートさせた。99年にJ1の京都パープルサンガに移籍して定位置を確保すると、大分トリニータ、ヴィッセル神戸への期限付き移籍を経て、02年に神戸に完全移籍。毎年のようにチームを変えたが、すべてのクラブで定位置を掴んでいる。
04年には西野朗が監督を務めるガンバ大阪に移籍。翌年、キャプテンを任されたシジクレイは、チームを初のリーグ優勝に導いた。天皇杯を制覇した07年限りでG大阪を退団し、9年ぶりに京都に復帰。京都では2年間で53試合に出場した。
187cmの体躯を誇り、的確な判断と高いリーダーシップでチームを統率。足下の技術も高く、ボランチとしてプレーしたこともあった。13シーズンに渡って日本でプレーし、ほぼすべてのシーズンでチームの中心選手として活躍。J1・J2・JFLを合わせたリーグ戦出場373試合に上る。
ジョルジーニョ(ブラジル代表)
生年月日:1964年8月17日
所属クラブ:鹿島アントラーズ(95年~98年)
J1通算成績:103試合出場/17得点
フラメンゴではジーコとチームメイトで、その後に渡ったドイツではレバークーゼンとバイエルン・ミュンヘンでプレーした。ワールドカップにはイタリア大会から2大会連続で出場し、94年のアメリカ大会ではブラジル代表の優勝に貢献。鹿島アントラーズには、ジーコが現役を退いた翌年の95年に加入した。
鹿島は96年に初のリーグ優勝を達成。年間最優秀選手賞とベストイレブンをダブル受賞したジョルジーニョは、優勝の立役者となった。所属した4年間で4つのタイトル獲得に貢献し、98年限りで鹿島を退団した。ブラジル代表では右サイドバックだったが、鹿島では元日本代表の本田泰人とボランチでコンビを組むことが多かった。
03年に現役を退いたジョルジーニョは、06年に監督業を開始。同年夏からはドゥンガ監督率いるブラジル代表のヘッドコーチを務めている。12年には古巣・鹿島の監督に就任してリーグカップを獲得したが、リーグ戦は11位に終わり、1年限りで退任となった。
ドゥトラ(ブラジル出身)
生年月日:1973年8月11日
所属クラブ:横浜F・マリノス(01年夏~06年、12年~14年夏)
J1通算成績:213試合出場/9得点
ドゥトラはかつて、ロベルト・カルロスと将来のブラジル代表を争うといわれていた。しかし、ブラジルではキャリアを築けず、レンタル移籍で2001年に横浜F・マリノスに加入した。
28歳の誕生日にJリーグ初出場を飾ったドゥトラは、マリノスの左サイドバックに定着。03年からはチームの連覇に貢献し、岡田武史監督からは「替えが利かない存在」と評された。しかし、チーム事情から06年限りで退団。ドゥトラはブラジルへ帰ることになった。
5年ぶりのマリノス復帰となったのは2012年だった。このとき既にドゥトラは38歳となっていたが、この年は29試合、13年も33試合に出場。13年には9年ぶりのタイトルとなる天皇杯優勝に貢献している。14年もプレーしたが、41歳の誕生日を前に契約満了をもって現役を引退した。