「ウルトラス」と呼ばれる熱狂的なサポーターが、世界各地のサッカークラブに存在している。如何に「ウルトラス」は変容し、世界中に広まっていったのか。世界各国の「ウルトラス」たちの正体を追った11月18日発売の『ULTRAS 世界最凶のゴール裏ジャーニー』より、アルゼンチンの章を3回に分けて公開する。今回は前編。(文:ジェームス・モンタギュー、訳:田邊雅之)
ボカ・ジュニオールの熱狂的サポーター集団
ボカ・ジュニオールは1905年、ブエノスアイレスのラ・ボカ地区において、イタリア人移民によって設立された。この地区の住民の大半は、イタリア北西部の港町、ジェノヴァからの移民である。イタリアとの絆がいかに強いかは、「ロス・セネイセス(ジェノヴァ人)」という愛称からもうかがえる。
【今シーズンの欧州サッカーはDAZNで!
いつでもどこでも簡単視聴。1ヶ月無料お試し実施中】
ボカはアルゼンチンで最も成功を収めたチームであると同時に、国情も反映するクラブとなった。アルゼンチンでは、全国民の60%以上が何らかの形でイタリア系の血を引いているからだ。ボカを軸に大西洋を挟んだ二つの地域では、別物ながらも極めて似通ったサポーターグループが台頭していく。イタリアのウルトラスと、アルゼンチンの「バーラ・ブラバ(勇猛なギャング)」である。
ボカのバーラは「ラ・ドセ」と呼ばれるが、この単語自体は1925年に生まれている。きっかけとなったのは、地元の資産家であるビクトリアーノ・カフェレナが資金援助を行い、クラブ初となるヨーロッパ遠征を実現させたことだった。
このニックネームは、1972年に彼が他界するまで用いられたが、ボカの熱狂的なサポーターグループを指す固有名詞としても普及していく。
粗暴な集団から厳格な組織へ
しかし1960年代後半から1970年代にかけて、ラ・ドセは変質する。
もともと1920年代のバーラ・ブラバは、粗暴なサポーターの集団という域を超えなかった。ところが時間の経過と共に組織は整備され、厳格なヒエラルキーに基づいて運営される一大勢力となっていく。
変化を後押ししたのは、各クラブの思惑だった。クラブ関係者は情熱的なサポーターを活用できると考え、交通費や観戦チケット、さらには「トラポス」と呼ばれる大きなフラッグをこしらえる素材などを提供し始めるようになる。
アルゼンチンのバーラを取材してきたグスタボ・グラビアは、元大統領のアルベルト・ホセ・アルマンドがキーマンだったと断じている。彼は1960年代にボカのバーラであるラ・ドセに対して、正式に資金援助を行い始めたからだ。その狙いはやはり、対戦相手を怯ませるような雰囲気を作り出すことだった。
ボカのレジェンドであるアントニオ・ラティンは、元アルゼンチン代表のキャプテンであり、1966年のワールドカップ本大会、イングランド戦において退場処分を受けた選手としても知られている。彼によればラ・ドセが与える影響は絶大だった。
「ボンボネーラでスタジアム全体が合唱し始めると、ライバルチームの選手の顔が青くなっていくんだ。それを覚えている」
だがサポーターへの資金援助は、予期せぬ結果をもたらす。バーラの人気が爆発する一方、彼らの行状が10年ごとに暴力的なものへと変質していったのである。これに伴い、アルゼンチンではサッカー絡みの暴力沙汰も激しさを増していくことになった。
(文:ジェームス・モンタギュー、訳:田邊雅之)
『ULTRAS 世界最凶のゴール裏ジャーニー』
<書籍概要>
定価:2750円(本体2500円+税)
劇的なドラマ、スター選手、華麗なテクニック、そして戦術。 ゴール裏のスタンドには、これらの一般的な目的とは全く異なる理由で、 サッカーの試合に熱狂する人々が膨大に存在する。 それが今日のサブカルチャーを作り上げた「ウルトラス」だ。 彼らは世界中のスタジアムを発煙筒の煙と怒号で満たしてきたが、我々はこの異質なファンのことを何も知らないに等しい──。
【了】