評価を高めたポルティモネンセ時代
プロサッカー選手の移籍にはビジネス的な要素も大いにあるが、契約書にサインするかどうかの最終決定は本人の意思に委ねられる。
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日本代表MF中島翔哉は、現地1月16日にUAE1部の強豪アル・アインと契約を結んだ。ポルトから今季終了までの期限付き移籍で、ポルトガルメディアなどの報道によれば4000万ユーロ(約48億円)にものぼる高額な買い取りオプションが付いているという。
彼にとって2度目の中東移籍に対し“都落ち”のようなイメージを持つ者もいるだろうし、実際にポルトはおろか欧州から離れたことに疑問を抱く者もいるだろう。実際にSNS上などでは将来を心配するような投稿も見られた。
だが、中島本人が契約書にサインしたのだから本稿ではアル・アイン移籍の是非については言及しない。そして、物的証拠があるわけではないので、あくまでこれまでの取材や状況証拠に基づいた推論であることも付言しておく。
では、ここからはなぜこのタイミングで高額な買い取りオプションの付いた期限付き移籍に至ったのかを読み解いてみたいと思う。
そのためにはまず、中島のポルティモネンセ時代から振り返っていく必要がある。
2017年8月にFC東京からポルティモネンセに移籍した中島は、加入初年度から大きなインパクトを残した。2017/18シーズンはポルトガル1部リーグで29試合に出場して10得点12アシストを記録。シーズン途中に期限付き移籍から完全移籍に切り替わり、下位クラブで二桁得点二桁アシストを達成した実績も評価されて欧州でも注目される存在となった。
2年目の2018/19シーズンは前半戦だけでリーグ戦13試合出場5得点6アシスト。順調にいけば2年連続の二桁得点二桁アシストも視野に入るペースで好成績を残し続けていた。その矢先、2019年1月に突如カタールのアル・ドゥハイルへ完全移籍することとなる。
アル・ドゥハイル移籍が全てのきっかけ?
ポルトでの苦境やアル・アイン移籍のきっかけは、この時にあったのではないかと筆者は見ている。というのも、移籍金の額が不可解だったからだ。当時の中島につけられいた市場価値は、選手情報データベースサイト『transfermarkt』によれば1800万ユーロ(約22億円)だった。
ところがアル・ドゥハイルは、市場価値の約2倍に相当する3500万ユーロ(約42億円)もの移籍金をポルティモネンセに支払っている。プレミアリーグやラ・リーガ1部ではなく、一段レベルの落ちるポルトガルで1年半の実績しかない選手に対する相場感からはかけ離れた金額だ。
ポルティモネンセの大株主(事実上のオーナー)であるテオドロ・フォンセカ氏は、もともと敏腕代理人として知られた人物で、相当なやり手なのは間違いない。今も中島の実質的な代理人を務めているが、彼が主導したであろうアル・ドゥハイル移籍にはビジネス的な意図を感じざるを得ない。
中島はアル・ドゥハイルで国内リーグ戦に7試合出場して1得点0アシスト。AFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループステージ突破にも貢献したが、カタールではさしたるインパクトを残せたわけではない。しかし、たった半年でポルトから声がかかった。
2019年7月5日、中島はUEFAチャンピオンズリーグを制したこともある名門クラブの一員となった。ポルトは新たに背番号10を託す日本代表アタッカー獲得のために1200万ユーロ(約14億円)を投じたが、アル・ドゥハイルからは保有権の50%しか買い取っていない。ここも重要なポイントだ。
そもそもポルトは「育てて売る」を信条とするクラブで、下部組織から輩出される優秀な若手なども積極的に活用しながら欧州カップ戦で決勝トーナメントに進出するレベルの実力を維持してきた。新戦力の獲得に1000万ユーロ(約12億円)以上を費やすのは稀で、中島は大型補強を敢行した2019年夏の新戦力で最も高額な選手だった。
歴代で見ても移籍金1200万ユーロは上から6番目、3000万ユーロ(約36億円)以上で売却した選手が12人いる一方で、1000万ユーロ(約12億円)以上で獲得した選手は13人しかいない。クラブ史上最高額の移籍金は2000万ユーロ(約24億円)、近年やや上昇傾向にはあるが、大体の場合新戦力の獲得に費やす金額は1人あたり500万ユーロ(約6億円)以下だ。
ポルト挑戦が失敗に終わった3つの理由
投じられた移籍金と託された背番号の重さなどを考えても、クラブ関係者が「中島はセルジオ・コンセイソン監督が欲しがっていた選手」というのも、あながち嘘ではないと感じる。だが、期待されたほどの活躍は見せられなかった。
大きな要因は3つ。ポルトガル語や英語を解さなかった中島には、コミュニケーション面で大きな障害があったのが1つ目だ。周りの選手は全員ポルトガル語かスペイン語、フランス語、最低でも英語を話すことができた。監督もポルトガル語の他にイタリア語、フランス語、英語を流暢に操る。
一方、どんなスター選手であっても特別扱いしないポルトでは通訳がつかず、日本語しか話せない選手にとっては厳しい環境だったのだ。さらに言えば、彼の内気な性格も影響したかもしれない。
もう1つは戦術的な制約が多かったことだ。コンセイソン監督は純粋にコンディションやチームへのコミットメントによって極めてフェアに選手を起用するタイプであると同時に、非常に厳格で規律に厳しかった。奇抜さはなく、どのポジションの選手にも常に100%の献身と忠実なプランの遂行を求める。
ポルティモネンセ時代は絶対的な存在で、自由を与えられた“王様”だった中島にとって、守備面でも多くのタスクをこなさなければならないポルトのサッカーに即座に適応するのは困難だっただろう。まして周囲とのコミュニケーションにも課題を抱えているのである。
ポルト加入からまもない2019年9月、コンセイソン監督から守備への切り替えを怠ったことについて試合終了直後のピッチ上で直接叱責を受ける一幕もあった。それでも何とか一時的にレギュラーの座を掴んだ時期もあったが、活躍は散発的だった。
新型コロナウイルスの感染拡大にともなう中断期間明けには家庭の問題も明るみになった。再開したチームトレーニングへの合流を拒否したと報じられ、その後も2019/20シーズン中はチームに戻れず。リーグ優勝や国内カップ戦優勝の際のセレモニーにすら、中島の姿はなく完全に蚊帳の外だった。
練習への再合流を望んだとも言われるが、コンセイソン監督はタイトル争いの最中に中島をチームに戻すことはなかった。一丸となって緊張感を保ち続けなければならない状況で、チームの和を乱す可能性を排除したかったのだろう。監督として中島をチームに戻さない決断はフェアで適切だったと感じる。
家庭の事情とはいえ練習への参加を望まなかった時点で、2019/20シーズンを共に戦ったチームの一員として認められなくなっていたのだ。決して監督との確執や軋轢のような個人的なものではなく、あくまで組織としての合理的な判断だった。そして、これが中島のポルトでの挑戦が停滞した3つ目の理由にして、最も決定的な要素にもなった。
(文:舩木渉)
☆中島翔哉、アル・アイン移籍の背景を読み解く(後編)はこちら☆
【了】