目次
黄金期の終焉と低迷
ファビオ・カペッロ監督が去ると、グランデ・ミランは終焉を迎えた。
【今シーズンのACミランはDAZNで!
いつでもどこでも簡単視聴。1ヶ月無料お試し実施中】
1996/97シーズン、ウルグアイの名将オスカル・ワシントン・タバレス監督の招聘は失敗に終わり、シーズン途中でかつて黄金時代の幕を開けたアリゴ・サッキが復帰したが効果はなし。セリエA11位という惨憺たる結果に終わる。次のシーズンにはカペッロをレアル・マドリーから連れ戻したが、リーグ10位と状況は好転しなかった。
どんな強豪チームでもピークを過ぎれば必ず下降線をたどるものだ。96/97シーズンを最後に主将で守備のリーダーだったフランコ・バレージが引退している。オランダ・トリオはすでになく、ロベルト・ドナドーニも全盛期を過ぎた。中心選手の老化とともにサイクルの終わりが訪れるのは自然といえる。
ただ、ミランは世界のトップクラブだった。次のサイクルを作れなかったのは補強の失敗が1つの要因といえる。
シルビオ・ベルルスコーニは偉大な会長だった。破綻しかけたクラブを再生し、世界のトップチームに飛翔させた。会長の意向は絶対で、補強や編成にも影響力を行使していた。ミランとベルルスコーニが日の出の勢いのころ、あるジャーナリストはこう言っていた。
「サッカーに情熱を持つ会長に見える。だが、ジャージの下にはスーツを着ているかもしれない」
フィニンベスト・グループを率い、メディア・セットも傘下に収めてメディアを牛耳ったベルルスコーニはイタリアの首相に上り詰めた。野心のためだけにミランを利用したとは思わないが、「ジャージの下のスーツ」は着ていた。ただ、問題は「スーツ」よりも「ジャージ」のほうだったのではないか。
当時、「スペクタクル」という言葉がよく使われていた。より攻撃的で娯楽性の高いサッカーだ。ベルルスコーニ会長は見栄えのいい、スペクタクルなミランを望んでいた。サッキ、カペッロが黄金時代を築いたミランは攻撃力も高かったが、強さの源はプレッシングという画期的な守備戦術にあった。プレッシングはすでにミランの専売特許ではなくなりつつあったが、スペクタクルの土台だった守備と、その中心だったDFの世代交代が重要ポイントだったはずである。
ミランが完全復活を果たすのは2002/03のUEFAチャンピオンズリーグ(CL)優勝からだが、このシーズンはアレッサンドロ・ネスタを補強している。
ザッケローニ監督と会長の志向
ベルルスコーニ会長のスペクタクル志向は、補強戦略を迷走させたのではないか。96/97のイェスペア・ブロンクビスト、エドカー・ダービッツ、クリストフ・ドゥガリー、ミオドラク・ブコビッチらの補強はほとんど空振りに終わっている。ジョージ・ウェア、ロベルト・バッジョ、デヤン・サビチェビッチのスターアタッカーを擁しながら上位に入れなかった。
97/98はパトリック・クライフェルト、アンドレ・クルス、レオナルド、イブラヒム・バなど攻撃陣を中心にてこ入れを行った。フランスのボルドーで活躍したバは、高速のドリブラーでスペクタクルな選手だったが、カペッロ監督は交代出場させたバを途中で交代させたくらいで、チームにフィットしていたとは言い難い。アンドレ・クルス、レオナルドも実力を発揮しきれなかった。
98/99、アルベルト・ザッケローニ監督が就任。当時ウディネーゼで旋風を起こした気鋭の指導者で、後に日本代表監督も務めたので日本のファンにもお馴染みの監督である。
ザッケローニが「私のドレスのようなもの」と言った3-4-3システムは、会長のスペクタクル志向にも合致していた。
シーズン前半は苦労したが、後半で一気に巻き返した。皮肉なことに、看板の3-4-3ではなくトップ下にレオナルドを配した3-4-1-2に変更してから軌道に乗せている。ウディネーゼから一緒にミラノへ来たオリバー・ビアホフ、トマス・ヘルヴェグが活躍し、ビアホフは20ゴールを叩き出した。2位のラツィオとは1ポイント差、終盤の7連勝でひっくり返している。
ザッケローニはミランを上昇させた。しかし、99/00はアンドリー・シェフチェンコを加えながら3位。2000/01には更迭され、チェザーレ・マルディニ監督が就任。01/02はファティム・テリム監督でスタートしたが、やはり途中でカルロ・アンチェロッティに交代。どん底からは脱出していたが、優勝には手が届かなかった。この迷走期にアンチェロッティが終止符を打つのは次のシーズンである。
(文:西部謙司)
【了】