トレブルとバロンドーラー
21世紀のリバプールFCは“トレブル”からスタートした。FAカップ、リーグカップ、UEFAカップの三冠だ。マンチェスター・ユナイテッドのリーグ、FAカップ、UEFAチャンピオンズリーグに比べると落ちるが、それでも3つのメジャータイトルを獲得したことに変わりはない。
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1998/99シーズンにジェラール・ウリエが監督に就任、当初はロイ・エバンス監督との2人監督制という特異な体制を敷いていた。監督のタンデムとしては、スウェーデン代表のラーシュ・ラーゲルベック&トミー・セデベリの例があり、ドイツ代表のユルゲン・クリンスマンとヨアヒム・レーヴもこれに近く、ブラジル代表のカルロス・アルベルト・パレイラ&マリオ・ザガロもそうだが、クラブチームではあまり聞いたことがない。ウリエがフランス人でプレミアリーグを率いるのは初めてだったからだろうか。
ウリエはフランス代表でミシェル・プラティニ監督を補佐した経験があり、これもタンデムに近かった。その後、単独でフランス代表監督になったように、リバプールでもエバンスが辞任して99/00から単独で指揮を執っている。
当時のエースはマイケル・オーウェンだ。17歳でのデビュー以来、チームを牽引したストライカーである。
オーウェンは12歳でスクールボーイ契約した例外的な存在だった。アーセナル、チェルシーも興味を示し、マンチェスター・ユナイテッドからはアレックス・ファーガソン監督の右腕であるブライアン・キッドが交渉に乗り出している。リバプールは往年のスター、スティーブ・ハイウェイを立てた。ハイウェイは熱烈な手紙攻勢で口説き落としたという。
リバプールのユースとFAのスクール・オブ・エクセレンスで育成された“ワンダーキッド”は育成世代のスーパースターだった。スプリント能力が図抜けていて、トップスピードでのコントロールからフィニッシュへ至るゴールの形を身につけていた。学業も優秀、聡明にして才能の塊。ポール・スコールズやデビッド・ベッカムなどの若い才能を生みだし始めたイングランドだったが、ピカイチはオーウェンだった。
00/01のトレブルの原動力になったオーウェンはバロンドール(01年)を受賞した。
2つの「悲劇」
トレブルを達成したシーズンのリーグは3位。CLの出場権を得たのは「ヘイゼルの悲劇」以来だった。
1985年5月29日、ベルギーのヘイゼルスタジアムでチャンピオンズカップ決勝のリバプール対ユベントスが行われた。当時のリバプールはヨーロッパ最強クラブの1つであり、プラティニを擁するユベントスも何度目かの黄金時代を迎えていた。だが、屈指の好カードは試合前に台無しにされている。サポーター同士の衝突をきっかけに群集事故が発生、39人死亡、400人以上が負傷という大惨事になってしまった。
フィールドでは心配蘇生措置が行われ、ヘリコプターが重傷者を搬送、犠牲者の遺体は正面入口の仮設テント内に並べられた。事故が起きても興奮した人々は警備員に投石するなど収拾がつかず、1時間後には警官隊700人と軍隊1000人が動員されて騒動を鎮圧している。
驚くべきことにこれほどの惨事にも関わらず、UEFAはキックオフの時間を90分遅らせただけで試合を決行した。選手たちの中には何が起こったのか事情をのみ込めていない者もいたようだが、ユベントスのジョバンニ・トラパットーニ監督は「多数の死者が出ている」と中止を訴えているので、全く何も知らなかったわけではなさそうだ。ともあれ、UEFAは試合を中止にすると騒動がエスカレートする恐れがあるとして試合は行われた。
UEFAはイングランドのすべてのクラブに対して無期限の国際大会参加禁止を言い渡し、結局イングランド全体では5年間、リバプールは6年間、UEFAの大会から締め出された。
さらに追い打ちをかけたのが1989年の「ヒルズボロの悲劇」である。こちらも群集事故。FAカップ準決勝のノッティンガム・フォレスト対リバプールで、ゴール裏立ち見席(テラス)へ収容人数を超えるファンが殺到してしまい、死者96人、負傷者766人。これを機にイングランドのスタジアムのテラスは廃止されることになる。
この事故を目撃した選手たちは引退を口にするほどショックを受け、ケニー・ダルグリッシュ監督は体調不良で辞任。後にリバプールのキャプテンになるスティーブン・ジェラードは、ヒルズボロで従兄弟を亡くしている。
2つの悲劇は70~80年代のヨーロッパ最強クラブだったリバプールのパワーを奪い、18/19シーズンまでプレミアリーグでは優勝していない。しかし、00/01のトレブルは名門復活を印象づけ、さらにCL優勝へつながっていく。
(文:西部謙司)
【了】