「大野とラピノーの獲得によってCL3連覇を目指す体制が整った」
今年の2月に現役引退を発表し、INAC東京のテクニカルコーチ就任が発表された大野忍。なでしこリーグ年間MVPを3度受賞、年間得点王が4回、なでしこジャパンでも139キャップ40得点という、日本が誇る名アタッカーがオリンピック・リヨンに入団したのは、2012年の冬だった。
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2011年にINAC神戸レオネッサに入団したときから、ロンドン五輪後には海外に挑戦したい、という思いを明かしていたという大野。FCバルセロナなどいくつかの候補があった中からリヨンに行くことを決めたが、直接的なきっかけとなったのは、2012年に日本で第一回大会が開催された、国際女子サッカークラブ選手権だった。
INAC神戸のメンバーとして出場した大野は、準決勝のキャンベラ・ユナイテッド戦で得点。リヨンと対戦した決勝戦では1−2でINACが敗れたが、このときの戦いぶりを見たリヨンからオファーが届いた。
「日本での経験を生かし、海外でも自分のプレーを出していきたい」。出発前に東京で行われた移籍発表の席で、大野はそう抱負を語った。
1月、リヨンで行われた入団会見には、ジャン・ミシェル・オラス会長、パトリス・ライー監督、そして、同時期に入団したアメリカ代表の攻撃的MFミーガン・ラピノーが同席。オラス会長は、「大野とラピノーの獲得によって前人未到のチャンピオンズリーグ3連覇を目指す体制が整った」と誇らしげに語り、ライー監督も、「シノとピノー(ラピノー)の加入は、他の選手にとっても刺激になる」と、強力メンバーの加入を喜んだ。
大野は、覚えたフランス語で開口一番、「メルシー(ありがとう)!」と言ったあと、「あ、まちがえた! ボンジュール(こんにちわ)! シノと呼んでください」と茶目っ気たっぷりのやりとりで場を和ませた。
「最高のパフォーマンスをして、リヨンに恩返しをしたいと思います」。広げたユニフォームに書かれた背番号は『29』。「肉です!」と言って、また笑いをとった。
世界最強のリヨンでは勝つのが「当たり前」
デビュー戦は、その日から約半月後の第15節、強豪ジュビジー戦。2-0とほぼ勝利を手中にした終盤の83分、大野は、プレーメーカーのルイーザ・ネシブに代わってピッチに送り出された。ドリブルでマーカーを振り切って味方にボールをさばいたり、素早い動きで前線をかきまわすなど、短い時間ながら個性を発揮してみせた。
当時のリヨンはスウェーデン代表のFWロッタ・シェリンをトップに置いた4-3-3が基本システムで、大野は練習では左ウィングなど複数のポジションをこなしつつ、試合では主にトップ下で起用された。
「個々の能力が高くて、ダイナミックさといい、スピーディーさといい、本当に世界一だな、と思う」と世界最強軍団の感想を口にした大野。「実戦より、練習中のミニゲームが一番きつい」ともらしていたが、国内リーグでは2010年3月から無敗の彼女たちにとっては、大きく差が開いた他チームとの試合よりも、ポジションを奪い合うチームメイトとの争いのほうが格段にレベルが高かった。
とりわけ、チャンピオンズリーグで2連覇、世界の頂点にも立ち、上昇気流の真っ只中にいたこの時期のリヨンは、有能な選手が国内外から集められていた分、メンバー争いも熾烈で、チームメイト同士が淘汰しあって己を高めていく、そんなカラーが強烈だった。
ほんの少しでも力を抜いていると判断すれば主力であっても容赦なく外す、というライー監督のポリシーは徹底していたから、どんなに相手が格下でボロ勝ちするような試合でも、選手たちはまったく手を抜かないどころか、ウォーミングアップ時から、ダッシュ、ストレッチ、ミニゲームに至るまで、見ているこちらの心拍数が上がりそうなくらい、緊張感がはりつめていた。
それは、会長の要求が厳しかったからでもある。試合に勝つのは当たり前。
「試合に3-0で快勝しても、相手が格下チームだとオラス会長から『なにふがいない試合してるんだ!』と雷が落ちる。勝つのは当然。それだけでは十分ではないんだという緊張感が常にある」。
そう話していたのは、当時女子チームでアシスタントコーチをしていた太田徹氏だ。
本人の意思で契約を1年残し退団
そんな環境で揉まれながら、初めて先発フル出場した2月20日のフランスカップ3回戦で大野は初ゴールをマークした。下がり目の位置から鋭いミドルを炸裂させた痛快なシュート。対戦相手は3部リーグ所属のチームで、リヨンは16-0と余裕の勝利だったが、大野は開始5分のこの先制点のあとも4点に絡んだ。
その後はリーグ戦でも先発出場のチャンスをゲットし、再び先発フル出場したカップ戦の次ラウンドでも2アシストを記録。この試合は前半に4本のシュートを打ったが決めきれず、大野は試合後「90分出て1点も取れないのは課題。このチームに慣れるのが一番大事。 とにかく自分はやるだけ」と悔しがったが、監督は、リヨンというチームのカルチャーや、フランスでの生活全般に適応するのに苦労しているとは感じつつも、1年半の契約期間で徐々に順応して、自分が意図するプレーに貢献する戦力となってくれることを期待していた。
現地誌とのインタビューでも「大野はテクニックが素晴らしく、非常に俊足。爆発力もある。慣れない環境ですぐにスタメンというわけにはいかないだろうが、徐々に向上して、来季はそこを目指してほしい。日本ではスターだったが、ここでは自分でポジションを勝ち取ることが必要だ」と話している。
しかし、最終戦のフランスカップ決勝戦を待たずして、大野がシーズン終了後に退団することが明かされた。契約は1年残っていたが、大野の側からその意向を伝えたということで、監督は「ここでの生活が合わなかったようだ」とだけ理由を話した。
たしかに、生活面や言語など、順応しづらかったところもあったようだったが、それだけでなく、チームメイトのメンタリティーや、サッカーへの取り組み方、監督の方針、といった部分でも、「違うな」と感じていたのではないかと推測する。
リヨンではなかった
クラブの体質や指導者によってチームの個性は異なるが、あれだけのスター軍団を束ねることを託されたライー監督が用いた手法は、自分が目指す確固とした型に選手をあてはめる、というスタイルだった。
2011年のワールドカップに優勝し、2012年のロンドン五輪でも銀メダルを獲得して世界のトップチームの一員としての手応えを得ていた大野は、入団に際して、「海外でも自分のプレーを思う存分出していきたい」と語ったように、自分の持ち味が世界の場でどう生かされるか、試してみたい思いもあっただろうと思う。
しかし、当時のリヨンは、『個々の選手の持ち味を生かす集合体』とは対極の性質をもつチームであり、監督が求めるサッカーを実践できる戦力になることが求められた。半年の契約で入団した同期のラピノーも、おもにチャンピオンズリーグで使われていたが、監督から絶えずダメ出しされていて、リーグ戦出場は6試合にとどまっている。
サッカー選手の現役キャリアは、怪我なくまっとうできたとしても一般的には30代半ばくらいまでと非常に短い。限られた時間の中で、選手は自分の身をどこに置くべきか、慎重に選ぶ必要がある。あと1年残って得られたものももちろんあっただろうが、「リヨンではない」と判断したということだろう。
大野は、2014年4月に近賀ゆかりとともにアーセナルFCに入団した。リヨンでは、シーズン終盤に負傷していたこともあり、チャンピオンズリーグ、とりわけ決勝戦(ヴォルフスブルクに敗れて3連覇を逃した)の舞台には立てなかったが、アーセナルで欧州の最高峰リーグも経験した。
リヨンで不完全燃焼だったものがあったのだとしたら、イングランドでそれを燃やすことができたかもしれない。個人的には、大野のヴォワッピー戦でのあの素晴らしいゴールと、うれしそうな笑顔を見ることができたのは、ひたすら光栄だった。
(取材・文:小川由紀子【フランス】)
【了】