移籍を決めた理由は「勢いが8割9割」
『ボマちゃん』として親しまれたパトリック・エムボマの紹介で、FC東京に所属していた鈴木規郎は2008年1月、フランスのリーグ2(2部)に所属するアンジェの練習に参加した。
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練習試合で長距離弾を決めるなど、チームメイトを圧倒するプレーに好印象を得たコーチ陣はさっそく獲得に動いたが、ちょうどヴィッセル神戸への移籍がまとまりかけていたため、この時はフランス行きを見送った。しかし1年半後の2009年夏、左サイドを活性化してくれるフレッシュな新戦力を探していたアンジェは、ふたたび鈴木にオファー。このときはちょうど神戸を出ることを考えていた鈴木とタイミングが一致し、話がまとまった。
当時、鈴木は選手盛りの25歳。アンジェへの移籍を決めた理由を尋ねると「勢いが8割9割ですかねぇ」と言って痛快に笑った。
この頃はまだ日本から海外へ移籍する選手は少なく、「日本代表に選ばれてから」や「中田英寿や中村俊輔のようなレベルの選手じゃなければムリ」といった、“なんとなく”なバリアがあって、二の足を踏む者が多かったという。
「日本代表にも呼ばれてない選手が、お給料もらってやっていけるような甘い世界じゃないとは思っていたけど、違うやり方もありだと思って」。
スポーツダイレクターのオリヴィエ・ピクーは「複数のポジションをこなすポリバレントさも魅力だ。ときには真ん中でプレーして、パワフルなミドルを炸裂してくれたらありがたい。よりテクニカルな日本のリーグから来たらこちらは相当フィジカルに感じるだろうが、その点には慣れる必要がある」と話し、ジャン=ルイ・ガルシア監督も「彼自身が得意としている左足のパワフルなシュートをぜひとも武器にしてほしい」と期待を口にした。
影を潜めるパワフルな左足砲
持病の右ひざを痛め、プレシーズンの練習試合は1試合途中参加したのみにとどまったが、開幕戦には間に合い、ホームでのディジョン戦の77分にピッチに送り出されて、鈴木はフランスリーグデビューを果たした。
サポーターたちも、彼の名前はすぐに覚えた(某自動車メーカーのおかげもあって『鈴木』という名は海外ではお馴染みである)。アンジェは街中の公共運動場を練習場として使っている。集まってくる地元の子供たちは「ス・ズ・キ!ス・ズ・キ!」と音頭をとっていた。
第2節も終盤から出場し、第3節のシャトールー戦で鈴木は初めて先発で起用された。ポジションは左サイドハーフ。しかしこの試合は0-3で惨敗し、鈴木も55分を経過したところで交代となると、その後は4戦続けてメンバーから外れることとなった。
こちらのサッカー、とりわけリーグ2はフィジカルが強いとは聞いていたが、現実は想像以上に厳しいと鈴木は感じていた様子で、「自分が通用するかどうかは結果次第。結果を出して、チームメイトが信頼してくれれば変わってくると思う。自分の持ち味はやっぱりシュートだから、とにかくシュートを決めないとね…」と自分を鼓舞するように話していた。
ブラジルの名左サイドバック、ロベルト・カルロスにちなんで『ノリカル』と呼ばれたパワフルな左足砲も、まだ炸裂していなかった。その後、第8節から5試合続けてピッチに立ったが、その後はメンバー入りすることもなくなった。
鈴木が感じた海外と日本の違い
この年のアンジェでは、フランスU-21代表経験もある主砲のアントニー・モデスト(現FCケルン)がコンスタントに得点をあげていたが、彼を筆頭に高い位置で張ったままボールを取りに下がってはこないアタッカー陣に対して、攻撃的中盤がどうゲームメイクしてゴールチャンスにつなげるかが課題となっていた。
監督としては、そこで前がかりなアクションを起こしてくれる戦力を求めていたが、横との連係の意識が低いミッドフィールダーたちの中で、鈴木もどう絡んでいくかに迷いを感じながらプレーしているように見えた。
鈴木の獲得は、それまで左サイドのレギュラーだった37歳のMFフィリップ・ブルネルを補うためのものだったが、指揮官は結局3年目で安定感のあるベテランを使うことを選択したのだった。
出場機会がないままシーズンが終了すると、鈴木は大宮アルディージャへの移籍を決めた。海外のクラブからの誘いもあったが、Jリーグに戻ることを選んだ。
その理由を彼は「海外でやりたい、という夢はあったが、その前に、もう一回、選手としてピッチの上で自分らしいプレーを出したい、という気持ちが大きかった」と話した。そして、Jリーグ復帰後に出場した2戦目の古巣・神戸戦で、さっそく得意の “ノリカル弾”を決めてみせた。
彼が感じた、海外でやっていくことの一番の難しさは「コミュニケーションがとれないこと」だったという。しかしそれは、単純な言語の問題ではなかった。
「なんでなのかなって、自分でもわからない。なんで表現できなかったのか、あのときは…。今日も(トレーニング中)言葉を言っているわけではない。やってることは一緒。でも、そこが文化の違いとか、人間が違うってだけで、素直に(自分が)出せる…」。
アンジェでは、練習のときから同じチームの仲間どうしが削り合ったり怒鳴りあったりしていた。アンジェが特別なわけではない。前を走る仲間の肩をつかんで転ばせてでも自分がボールをとったら、「そのガッツいいぞ!」と褒められる世界で、フランスリーグの選手たちは育ってきている。
そんな中で自分を表現していくことや、「仲間とはなんなんだ?」という根本的な感覚の違いに疑問を感じながらの日々で、鈴木は、フランスは「自分を自分らしく表現できるところではない」、と感じたのだという。
「充実できた。行って後悔はない」
新たな発見もあった。外に出たことで、それまで当たり前に過ごしていたJリーグの環境が、いかに恵まれているかに気づいたことだ。
クラブハウスの設備から、食事、ドリンクやサプリメントなどの支給、“絨毯のように”整備された芝など、“物”に加えて、スタッフが常に選手たちにとってできるだけ良い環境を整えようと努力してくれている、その“思い”の尊さをあらためて実感した。
また、現地では地元在住の日本人と仲良くなり、大学の講師や主婦、ヒヨコの選別士といった、日本にいたらあまり接点のない年代や分野の人たちと交流する機会を楽しんだ。毎日自炊もしていて、市場でワカサギや小イカを買って天ぷらまで作ると聞いたときには驚いたが、鈴木規郎のウィキペディアのフランス語版には『料理好き』という記述もあるくらい、現地でも知れわたっていた。
アンジェでの挑戦は「充実できた。行って後悔はない」と、鈴木は言った。
「100%やった。もしそのときできていたのならやっていた。そのときやる気がなかったのなら、それがすべてだったということ」。
小学4年生のとき、鈴木は文集に「将来は、高校サッカーに出て、プロになって、日本代表になって、セリエAでプレーする」と書いていたという。高校でのサッカーは体験し、プロにもなった。アンダーカテゴリーでは日本代表にも選ばれ、一個だけやり残していたものが海外移籍だった。
「自分のサッカー人生の中で、一回は海外のサッカーを経験してみたかった。後から自分の道を振り返ったときに、人と違うことをした、と思えるように。それを周りはどう評価するかはわからないけど、自分としては、その思いを実現させたことが大事」。
引退前には、フィリピンリーグにも挑戦した。なにより、アンジェという街に、鈴木という選手がいた、という歴史は刻まれている。
(取材・文:小川由紀子【フランス】)
【了】