トータルフットボールの始祖とは?
1974年ワールドカップで準優勝したオランダは「トータルフットボール」の代表的なチームだった。オランダを率いていたリヌス・ミケルス監督は、もともとアヤックスでこの戦術を始めたトータルフットボールの父というべき人物だが、「我々の前にはオーストリアのヴンダーチームがあった」というコメントを残している。
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ヴンダー(奇跡の、驚異の)と呼ばれたオーストリア代表は1930年代に黄金時代を迎えた、当時世界最強チームの1つだ。最初にトータルフットボールをプレーしたともいわれている。
オーストリアはスコットランドのプレースタイルの影響を受けている。オーストリア代表監督を長年務めたヒューゴ・マイスルが英国人コーチ、ジミー・ホーガンを招聘したのが始まりだ。ホーガンはイングランド人だが、スコットランド式のショートパス戦法をオーストリアに教えた。オーストリアだけでなく、ハンガリー、ドイツ、スイス、オランダでも指導し、大きな影響を与えたコーチである。
フットボールにおける戦術の始まりは、1871年のクイーンズ・パークといわれている。この年から開催されたFAカップで披露したクイーンズ・パークのプレーが、ショートパス戦法の始まりだったからだ。クイーンズ・パークはスコットランドから遠征して参戦した唯一のクラブで、準決勝にシードされてロンドンの強豪ワンダラーズと対戦して0-0で引き分けている。
しかし、再試合のために再びロンドンを訪れる資金が足りず、クイーンズ・パークは棄権、不戦勝したワンダラーズが決勝も勝利して栄えあるFAカップ初代王者となった。
同年の11月30日、最初の国際試合であるスコットランド対イングランドが行われている。こちらも0-0の引き分けに終わっているが、この試合はスコットランドにフットボールブームを巻き起こし、すぐにスコットランド協会が設立された。
「“フランス野郎”を連れてきてぶん殴ってやる」
イングランドを迎えて初の国際試合を開催した時点で協会はまだ存在しておらず、クイーンズ・パークの人によって編成され、そのときの紺色のジャージがスコットランド代表の色として定着している。
クイーンズ・パークは体格の小さな選手が多かったようで、その不利を克服するために素早いショートパスを使った攻撃を編み出したそうだ。クイーンズ・パーク流ショートパス戦法はイングランドに対して効果を発揮し、72~82年までの10年間に行われたイングランド戦の戦績は7勝2分2敗とスコットランドが圧倒している。
ショートパス戦法出現以前のフットボールに戦術と呼べそうなものはなかったようだ。何しろパスは「男らしくない」という理由で敬遠されていて、ドリブルで行けるところまでボールを運ぶか、ロングキックを蹴ってボールを追っていくかというプレーぶり。ドリブルする味方の後方支援をする「バックアップ」が戦術といえば戦術だったようである。
1863年にFA(フットボール・アソシエーション=イングランド協会)が設立され、それまでまちまちだったルールの統一がはかられていくのだが、最大の争点はハッキングを認めるかどうかだった。
ハッキングとは相手の足を蹴って撃退する行為だ。もう一度書くが、攻め込んでくる相手選手に対して足(主に脛)を蹴って侵入を防ぐ行為を合法とするかどうかで揉めに揉めた。
ハッキング賛成派の意見は、ハッキングを禁止すれば「男らしさがなくなる」 であり、容認派の筆頭だったブラックヒース・クラブのフランシス・キャンベル代表は、「ハッキングが禁止されるなら、“フランス野郎”を連れてきてぶん殴ってやる」と会議で演説し、 喝采と嘲笑の両方が沸き起こったという。
この発言の意味はよくわからないものの、フットボールは「男らしさ」を誇る競技であり、ハッキングの禁止など話にならんという意見が厳然としてあったということだ。結局、投票の結果ハッキングは禁止となり、それを不満として脱会したメンバーがやがて1871年にラグビー協会を設立することになる。
(文:西部謙司)
【了】