トップ下・三浦知良
片道の航空券だけを握り締めて渡ったブラジルの地で、王様ペレを輩出したサンパウロ州の名門サントスFCとプロ契約を結んだのが、日本の元号がまだ昭和だった1986年2月。平成をへて令和になった今年で35年目を迎えたレジェンドが、新境地にチャレンジしている。
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13年ぶり2度目のJ1に挑んでいる横浜FCを率いる下平隆宏監督は、シーズン開幕直後の2月26日に53回目の誕生日を迎えた現役最年長選手、三浦知良のポジションについてこう語っていた。
「トップ下のところが一番いいのかな、と思っています」
ブラジル人のエジソン・アラウージョ・タヴァレス前監督の解任に伴い、ヘッドコーチから昇格する形で監督に就任したのが昨年5月。横浜FCを右肩上がりに転じさせ、J2戦線で2位に食い込ませて自動昇格を勝ち取った過程で、下平監督はカズをトップ下で2度先発起用している。
仙台大学に2-1で勝利した天皇杯全日本サッカー選手権大会2回戦と、横浜F・マリノスに1-2で屈した同3回戦。下平体制下では唯一のリーグ戦出場となった愛媛FCとの最終節も、2-0とリードした87分からトップ下として投入され、J1昇格を告げる主審の笛をピッチの上で聞いている。
「大勢のファンやサポーターの前で、最高の形で昇格することができた。ホームでみんなとその輪に加われたことを誇りに、そして光栄に思います。素直に感動しました」
J1昇格の安堵と厳しい現実
最後となる3人目の交代要員としてホームのニッパツ三ツ沢球技場のピッチに立ち、ほぼ満員となる1万3000人近くのファン・サポーターを、さらにヒートアップさせたなかで至福の喜びを共有する。感無量の思いに浸っていたカズへ、メディアからこんな質問が飛んだ。
J1昇格を果たしてホッとしているのか。あるいは、新たな競争が始まるという思いなのか――ハードなトレーニング内容で知られる、恒例のグアム島における自主トレへ向かう計画をすでに練っていたカズは、穏やかな笑顔を浮かべながら「半分、半分ですね」と言葉を返している。
「J1へ昇格したことにはホッとしていますけど、現実がありますからね。メンバー外で試合に出られない状況が、選手にとっては一番辛い。僕の場合は勢いのある若手と勝負するだけでなく、当然ですけど補強もするはずなので、チャンスが少ないなかでどのように自分をアピールできるか、ということを考えていかないと。出場機会が少ないとはいえ、この2年間ゴールできていないので」
横浜FCはオフの間に、昨シーズンの京都サンガで17ゴールをあげた22歳のホープで、下平監督も潜在能力の高さを高く評価する一美和成を、保有権をもつガンバ大阪から期限付き移籍で補強。基本布陣を[4-2-3-1]にすえるなかで、加入後の4年間で78ゴールをあげているノルウェー出身の絶対的エース・イバ、日本代表経験もある皆川佑介と1トップを担える人材がそろった。
13年ぶりのJ1を戦い抜く構想
だからといって、3人から弾き出される形でカズのポジションがトップ下になったわけではない。そもそもトップ下も柏レイソル時代にJリーグMVPを獲得したレアンドロ・ドミンゲス、アカデミー出身で22歳の齋藤功佑に加えて、昨夏の加入後はボランチでプレーしていた元日本代表の中村俊輔が、満を持して最も得意とするポジションへ参戦。1トップ以上の激戦区と化していた。
「あの年齢で、と言ったら非常に失礼ですし、僕が言うのもおこがましいんですけど、カズさんと去年一緒にやってきたなかでポジショニングがすごくよくなったんですね。ボールキープや相手の間でボールを受けることも含めて、もっと、もっと上手くなりたいという意識がすごく高い」
横浜FCを率いて以来、フォワードからトップ下へと順応するカズの変化を間近で見てきた下平監督はこう語る。その上でシーズン中にレアンドロ・ドミンゲスが37歳、俊輔が42歳になることを踏まえながら、齋藤とカズを含めたローテーションを組んで長丁場のJ1戦線を戦い抜く構想を描いた。
「年齢が高い選手が多いので、状態がいい選手が入っていくことで上手く回っていけば、と考えています。全員が同時にいい状態にならなくても、誰かがいいタイミングで入っていく形ですね」
ストライカーへの適応
カズにとっても、新しいポジションへの挑戦は初めてではない。ブラジルでは当時主流だった[4-3-3]システムのなかで、左ウイングに居場所を築き上げた。当時の心境をこう語ったことがある。
「ブラジルにいたときはアシストを決めるだけで本当に満足で、ゴールに対してはそれほど貪欲じゃなかった。ウイングとしてアシストを決めればいいんだ、と思っていましたからね」
しかし、日本代表をワールドカップに出場させる、という新たな夢を抱いて1990年夏に帰国し、加入した読売クラブ(現東京ヴェルディ)に居場所はなかった。基本システムが[4-4-2]にすえられたなかで、2トップの一角という不慣れなポジションに悪戦苦闘する日々が続いた。
「あのころはフォワードに対する考え方というか、サッカーそのものが変わっていった。かつてのウイングというポジションの仕事が、サイドバックの仕事になっていたし、センタリングを上げる練習もサイドバックがしている。サッカーが変わっていったなかで、僕に求められるものも変わっていった」
鳴り物入りで帰国しながら、2シーズンにわたってプレーしたJリーグの前身、日本リーグであげたゴール数はわずかに9だった。日本代表でもデビューから2年近くにわたって国際Aマッチで無得点が続き、期待外れだと酷評する声も耳に入ってくるなかで、カズは意識改革を含めて自らに課す仕事をウイングからストライカーへ、求める結果をアシストからゴールへと必死に変えていった。
「最初は全然ダメだったんだけど、途中から不思議とシュートが上手くなったんだよね。感覚があったのかな……でも、感覚でいえば武田(修宏)や高木(琢也)、そしてゴン(中山雅史)の方がはるかにあった気がする。でも、何だかわからないうちに、だんだんとストライカーになって、いまではいい意味でストライカーしかできなくなった。もうゴールだけ、という感じになってきている」
こう語ってくれたのは、21世紀に入った直後の2001年1月だった。サンガからヴィッセル神戸に移籍した直後の当時33歳のカズは、Jリーグの歴代得点王のなかに名前を連ね、日本代表としても不世出の名ストライカー、釜本邦茂に次ぐ歴代2位となる国際Aマッチ55ゴールを決めていた。
あれから19年あまり。2005年夏から所属する横浜FCでいつしか最古参選手となり、前回にJ1へ挑んだ2007シーズンでプレーした唯一の存在となったカズは、誰よりも自身の肉体に生じた変化を理解している。その上で、勝負するポイントを「技術」の二文字に求めていた。
(取材・文:藤江直人)