デビュー戦と同じ横浜で
運命に導かれた縁を感じずにはいられない。リザーブのまま90分間を終えた昨シーズンの明治安田生命J1リーグの6試合で、ガンバ大阪を率いる宮本恒靖監督が一度でもレジェンドの力が必要だと判断していたならば、遠藤保仁を取り巻く状況は大きく変わっていた。
【今シーズンのJリーグはDAZNで!
いつでもどこでも簡単視聴。1ヶ月無料お試し実施中】
最終的には2018シーズン限りで現役を退き、いま現在は名古屋グランパスのアカデミーGKコーチを務める元日本代表の楢崎正剛さんがもつ、631試合のJ1歴代最多出場記録にあと「1」と迫った状況で昨シーズンを終えた。そして、年が明けてまもなく、ドラマが大きく動き出した。
Jリーグから1月10日に発表された今シーズンの開幕カード。ガンバは2月23日に日産スタジアムへ乗り込み、王者の横浜F・マリノスと対峙することが決まった。もっとも、敵地のピッチに立った瞬間に、楢崎さんが22年もの歳月をかけて積み上げた大記録に遠藤が並ぶことだけがドラマではない。
強豪・鹿児島実業高から横浜フリューゲルスに加入した1998シーズンに、遠藤はプロとしてのキャリアをスタートさせた。迎えた3月21日。ネーミングライツを取得した日産自動車のもとで日産スタジアムに変更されるはるか前の、完成したばかりの横浜国際総合競技場のピッチに遠藤は立った。
横浜マリノスとの「横浜ダービー」となったファーストステージ開幕戦。FCバルセロナを率いた実績をもつカルロス・レシャック監督に見初められ、高卒ルーキーながら先発を射止めた「27番」は延長戦を含めた95分間を最後まで戦い抜き、2-1の延長Vゴール勝利に貢献した。
「選手である以上は先発で試合に出たい」
「自分がプロとしての第一歩を踏み出した場所ですし、巡り合わせがいいのか、運がいいのかわからないですけど、今日も勝利で飾れたのでよかったなと思います」
22年前と同じ2-1のスコアでトリコロール軍団を撃破した90分間を、先発フル出場した遠藤はいつもと変わらない、ひょうひょうとした口調で振り返った。これも縁と言うべきか。デビュー戦のピッチでは、フリューゲルスの守護神を担っていた楢崎さんと勝利の喜びを共有している。
世界を見渡しても稀有な記録となる、公式戦通算1000試合出場を達成した昨年8月2日のヴィッセル神戸戦後の取材エリア。この時点で楢崎さんの記録まであと10試合に迫っていた遠藤は、個人記録よりもチームの勝利を優先させてきたスタンスを珍しく、ちょっとだけ変えていた。
「できれば抜きたいな、と。でも、こればかりはやってみないとわからないので、ひとつの目標としてリスペクトの思いを抱きながら、目指していければいいかな、と。ポジションは違いますけどやはり大先輩の記録ですし、ここまで来てあらためて正剛さんの偉大さも感じているので」
年をまたいで楢崎さんの記録に並んだ。しかも、マリノスに吸収合併され、チーム名称に『F』を残して消滅したフリューゲルスから移った京都パープルサンガ時代の2000シーズンから、実に21年も続けて開幕戦のピッチに先発として立つという稀有な記録で花を添えた。
「あまりその記録には興味はないですけど、でも選手である以上は先発で試合に出たいという思いは、何歳になっても変わらないと思うので。今日も最初から絡めて嬉しいし、まだ並んだだけですけど、正剛さんの記録に並ぶことができて非常に光栄です。フリューゲルス時代の先輩ですし、これだけ試合に出る大変さというのは、多分、僕と正剛さんしかわからないところもあると思うので」
「マリノスを倒すためだけ」
もちろん、記録達成の喜びに浸るような男ではない。そして、取材エリアにおけるやり取りで、なかなか本音を明かすタイプでもない。ルーキー時代の22年前へタイムスリップするような、いわゆるデジャブを覚えることは――こう問われた遠藤は、間髪入れずに首を横に振った。
「なかったですね、はい。普通にマリノスを倒すために、というだけでした」
J1通算出場記録の上位5傑を見れば、自身と楢崎さんの次には2018シーズン限りで引退した中澤佑二さんが593試合で続き、現役勢の38歳のMF阿部勇樹(浦和レッズ)が574試合で、40歳のGK曽ヶ端準(鹿島アントラーズ)が532試合でそれぞれ名前を連ねている。
ただ、昨シーズンのJ1における出場数は阿部が11試合、曽ヶ端は4試合にとどまっている。一方で楢崎さんの記録に届かなかったとはいえ、昨シーズンの遠藤は28試合に出場している。プロ23年目、2001シーズンから移ったガンバでは20年目を迎えたキャリアのなかで、おそらくは未来永劫に破られない、偉大な記録を打ち立てる選手になる予感はあったのか。
「いや、なかったですよ。途中までもなかったですね、はい」
ならば、客観的に見て、遠藤保仁という選手のどこが優れているのだろうか。自己分析を聞くと「100個ぐらいあるので、言えないですね」と煙に巻きつつ、ひとつだけ明かしてくれた。
「いろいろな方が自分をサポートしてくれた、というのは間違いないと思います。チーム関係者もそうですし、家族もそうですし、知り合いとかもそうですけど、自分がサッカーをする上でいい環境を整えてくれているのは、間違いなくここまでやれている要因のひとつだだし、そこは感謝しています」
長友佑都も感嘆する偉大な数字
では、サッカー選手の資質でひとつだけあげると――ここまで自己分析をすれば、照れくささを覚えるからか。思わず苦笑いを浮かべながら、遠藤は軽やかに質問をそらしている。まるでピッチ上で対戦相手のマークをかわしながら、味方へ鋭いパスを送るかのように。
「歴代の監督に聞いてください」
所属クラブではフリューゲルス時代のレシャック監督に始まり、2018年夏からガンバを指揮する宮本監督まで、延べ13人の指揮官から変わらぬ信頼感を寄せられてきた。指揮官のなかには日本代表を率いた加茂周監督、そして後にロシアワールドカップで采配を振るう西野朗監督も含まれている。
ジーコ監督のもとで初めて招集された日本代表においても、イビチャ・オシム、岡田武史、アルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレの歴代監督から重用された。信頼の積み重ねが日本代表史上で最多となる、実に152を数える国際Aマッチにおける獲得キャップ数に反映されている。
<ここにきて改めてヤットさんの凄さを痛感する。152試合て。。数字積み重ねてるはずやのに、遠のいていく感覚。ここからがより一層厳しくなるのを俺なりに知ってるんだよ>(原文のまま)
現役時代は「アジアの壁」として畏怖された井原正巳さん(現柏レイソルコーチ)に122試合で並び、歴代2位タイにランクされているDF長友佑都(ガラタサライ)が昨秋に自身のツイッターへ投稿したつぶやきを見れば、遠藤が築き上げた「152」がいかに偉大な数字なのかが伝わってくる。
ピッチに立てなかったドイツW杯
ウイルス性肝炎で戦列を2度離れた時期を除けば、選手生命を脅かしかねない大きなけがとはほぼ無縁のサッカー人生を歩んできた。試合中に大けがを負わないのはポジショニングに秀でているからであり、日々の練習などでは不必要な負荷をかけないように身体との会話を欠かさない。
ストレスもやがては故障につながると考え、食べたいものを好きなだけ食べる、とばかりに食事にもほとんど制限を設けてこなかった。立ち居振る舞いと同様に、私生活でもひょうひょうと自然体を貫いてきた遠藤から一度だけ、本音に近い思いを聞いたことがある。
「ドイツ大会は自分にとっても初めてのワールドカップであり、選ばれただけでも嬉しいという気持ちもあった。ピッチに立てなかったことはもちろん悔しかったけど……」
日本代表史上で最強のチーム、という前評判とともに臨んだ2006年のドイツワールドカップ。ひとつの白星をあげられないままグループリーグ敗退を喫したなかでただ一人、ピッチに立つことができなかったフィールドプレーヤーが「4番」を背負っていた遠藤だった。
一敗地にまみれた仲間たちを、無念の思いとともにねぎらった26歳の夏がサッカー人生で一番悔しかったのでしょうか――こんな質問をぶつけてみたのが、長谷部誠(アイントラハト・フランクフルト)と不動のダブルボランチを組み、岡田ジャパンで代役の効かない存在感を放っていた2009年の春だった。違うと首を横に振った遠藤から返ってきたのは、意外な大会名だった。
(取材・文:藤江直人)
【了】