父は浦和レッズのレジェンド
後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、王者から常勝軍団へ新天地を求めた。プロになって6年目にして念願のJ1デビューを果たし、ゴールまで決めた横浜F・マリノスの慰留を振り切る形で、鹿島アントラーズへの移籍を決断するまでの日々を、広瀬陸斗は「もちろん迷いました」と振り返る。
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「言い方は失礼ですけど、優勝チームからわざわざ(順位が)下のチームへ行くというのは……あっちはすでにACL出場が決まっていて、試合数も多いなかでの移籍だったので」
Jリーグ黎明期の浦和レッズで直接フリーキックの名手として名を馳せたレジェンドで、今年から現埼玉県リーグ3部の川越FUTUREの監督を務める広瀬治氏を父にもつ24歳のサラブレッドは、埼玉大学教育学部附属中へ進学した2008年にレッズのジュニアユースへの入団を果たした。
しかし、順風満帆に映った軌跡はユースの卒業を控えた2013年に、別ルートへ回ることを余儀なくされる。トップチームへの昇格がかなわなかった広瀬は、2014年にJ2の水戸ホーリーホックへ加入。プロの第一歩を踏み出すと、翌2015年には徳島ヴォルティスへ完全移籍した。
4年間在籍したヴォルティスでは、J2の舞台で通算98試合に出場。レッズユースまではフォワードとしてプレーしていた広瀬はサイドバックとしての才能を開花させ、左右のサイドバックを戦術のキーマンにすえる、アンジェ・ポステコグルー監督に率いられるマリノスに見初められた。
マリノスからの強い慰留
迎えた昨年2月23日。敵地パナソニックスタジアム吹田へ乗り込んだガンバ大阪との開幕戦で、右サイドバックの先発をゲット。J1デビューを果たした広瀬は11試合連続で先発し、かつて下部組織に所属したレッズと対戦した4月5日の第6節ではJ1初ゴールまで決めてみせた。
夏場以降は復調した松原健に右サイドバックのレギュラーの座を奪われ、自身はリザーブに回る試合が増えた。それでも最終的にはリーグ戦で20試合、1727分間にわたってプレーした広瀬は、J1王者としてAFCチャンピオンズリーグ(ACL)に臨む2020シーズンにおいて必要不可欠な選手だった。
「J1で出られたことも最後に優勝できたこともそうですけど、試合に出られている時期とそうじゃない時期とがあったなかで、試合に出られていないときの振る舞い方を学びました。マリノスのために全員を同じ方向へ向けさせることがいかに大事なのかを、自分より年上のユウキ君(大津祐樹)やタカ君(扇原貴宏)をはじめとして、本当にいろいろな人から学ぶことができました」
より厚い選手層が必要となる2020シーズンへ。右サイドバックを主戦場としながら左でもプレーでき、父譲りの高精度の直接フリーキックを右足に搭載した広瀬のもとへ、サイドバックを重点補強に掲げるアントラーズからオファーが届いた。当然ながらマリノスからは強く慰留された。
「みんなから止められました。シーズンオフに入ってもみんなでご飯や買い物などに行ったなかで、シン(畠中槙之輔)やユウキ君、タカ君、喜田君(喜田拓也)たちから『マリノスに残ってくれ』とか『まだ一緒にやりたい』と言われて」
チーム強化の最高責任者にあたる、スポーティングダイレクターを務める小倉勉氏との交渉の席でも強く慰留された。マリノスでの日々に不満を抱いていたわけではなかった。むしろ最高の仲間たちと、最高に楽しい時間を過ごせたという充実感を広瀬は抱いていた。
「タイトルを獲るのは義務」
それでも、アントラーズからオファーを受けたときに、自分のなかで下した決断を最終的に貫いた。天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝でヴィッセル神戸に屈し、無冠で2019シーズンを終えてから2日後の1月3日。マリノスから完全移籍でアントラーズに加わることが発表された広瀬は、クラブの公式ホームページ上でこんな第一声をファンやサポーターへ届けている。
<タイトルを獲るのは義務だと思ってるので、一つでも多くのタイトルをともに獲りましょう!>(原文のまま)
宮崎市内で行われたキャンプを終えて、茨城県鹿嶋市内へと戻った後の1月23日に開催された新体制発表会見。背番号「22」を背負うことが決まった広瀬は、自分自身にあえてプレッシャーをかけるかのように、再び「義務」という二文字を口にしている。
「伝統ある常勝軍団、鹿島に来られたことを嬉しく思います。常に勝ちを求めなくてはいけないし、タイトルを獲らなくてはいけないという義務があると思うので、そのプレッシャーのなかでサッカーができることを、自分としては幸せに思っています」
だからこそ、国内の公式戦に先駆けて先月28日にホームの県立カシマサッカースタジアムで行われた、メルボルン・ビクトリーFC(オーストラリア)とのACLプレーオフで敗れ、本大会の舞台にすら立てずにタイトル獲得の可能性が消滅したショックは大きかった。
(取材・文:藤江直人)