「それがあるとわかっているから月曜のオフも楽しめない(苦笑)」
「中3の春、当時の古賀琢磨監督に『高校サッカーへ行きたい』と面と向かって言ったんです。そしたら『お前は胸に何をつけているんや。プロになりたいんやろ』と。その強い言葉を聞いて、セレッソに残ろうと思いました。
それを境にユースの練習に参加させてもらい、完全にユースからプロになることだけを考えるようになりました。隣のグラウンドで兄貴の友達だったタカ(扇原貴宏)君と永井(龍)君が、日本代表の香川(真司)君たちと一緒にトップで練習しているのを見ると、すごく身近に感じたし、刺激になりましたね」
セレッソ側も育成年代の選手を大きく育てる環境を着々と整えていった。柿谷曜一朗や山口蛍の頃にはなかったユース専用寮を設置。南野は興国高校に入った2010年から寮生活を始めた。
栄養・体調面もしっかりとチームが管理。アカデミー組織を支援するハナサカクラブも強固になり、彼らは海外遠征に赴いて国際経験を積むチャンスも得た。フィジカルコーチやフィジオセラピストなどの専門スタッフも置かれ、フィジカルテストなど科学的なアプローチも受けられるようになった。
宮本功代表幹事も「拓実はスピード、持久力、跳躍力のすべてにおいて、高いレベルの数値を叩き出した」と語っていたが、それだけの非凡な身体能力のベースを確実にプレーに生かしたから、彼は15歳の頃から日の丸を背負う選手になれたのだろう。
「ユースに上がってフィジカルコーチの藤野(英明)さんの指導を受けたんですけど、それがビビるくらいにきつかった(苦笑)。毎週火曜日はグラウンドをグルグル回る走りから始まって、細かいアジリティやダッシュとかのサーキット、最後にゲームをやったりと本当にハードでしたね。それがあるとわかっているから月曜のオフも楽しめない(苦笑)」
そのくらいやらないと、大熊裕司U-18監督(当時)のプレスサッカーはこなせなかった。
「疲れていても守備をサボったら思い切り怒られますからね。手を抜こうものなら大熊さんはちゃんと見ている。それまでの僕は全然守備をしない選手だったけど、ユース年代でサイドハーフをやる機会もあって守備の仕方を一から学ぶことができた。その経験が今に生きていますね」と南野は壮絶だったユース時代をしみじみと振り返る。
大熊裕司監督も守備意識の薄さ、球離れの悪さといった南野の弱点を容赦なく指摘し、改善を促そうと真摯な姿勢で向き合い続けた。この指導者は決して妥協を許さない。だからこそ、多くのトップ選手を輩出できたのだろう。
「ユースに上がってきた当初の拓実はゴールを決めたい気持ちが強すぎるあまり、ボールを持ちすぎる傾向が顕著でした。そこで『ゴールから逆算してプレーを選択するように』と口を酸っぱくして言い続けました。
守備にしてもそうで、正直高1の頃は全くと言っていいほどプレスに行けなかった。あるとき、本人が『守備の負担が大きすぎて大事なところで力を出し切れない』と言ってきたことがありました。本人がストレスを感じているのを私も分かっていました。
それでも『続けることで必ずできるようになる』と励まし、背後からサポートし続けました。高2〜3でサイドハーフを経験させ、プレーの幅を広げることにもトライした結果、守りの課題にも確かな改善が見られました」(大熊裕司監督)
(文:元川悦子)
【了】