「社長になりたい」から入った
東京から直線距離で南西方向へ約4600km離れ、2時間の時差も存在するタイの首都バンコクへ、岡田武史は今夏から頻繁にメールを送るようになった。
「しょっちゅうメールでやり取りしているけど、エンジョイしているみたいだよ」
メールの受け取り主は、7月にタイ代表監督に就任した64歳の西野朗氏。年齢は岡田がひとつ年下だが、一浪して入学している関係で早稲田大学ア式蹴球部では2学年後輩だった。サッカーを介して出会ってから、40年もの歳月を超える付き合いのある先輩とどのような文面を交わしているのか。
「まあ、気をつけてね、とだけ送っておいたけど」
意味深げな笑顔を浮かべながら、自身が返信したメールの一部を明かしてくれたのは先月10日。西野氏、なでしこジャパン前監督の佐々木則夫氏とともに日本サッカー殿堂入りを果たし、東京・文京区のJFAハウス内で開催された掲額式典およびレセプションに出席した後だった。
早稲田大学を卒業した後は、西野氏が日立製作所本社サッカー部(現柏レイソル)の攻撃的MFとして、岡田が古河電気工業サッカー部(現ジェフユナイテッド千葉)のセンターバックとして活躍。Jリーグの前身となる、アマチュアの日本サッカーリーグで何度も敵味方として対峙した。
「古河に入ったのは、社長になりたいと思ったから。現役の最後に、後がつかえているから引退してくれと言われて、業務に専念しようと思ったら人事部付でコーチになれ、と。当時はプロができるかどうか、まだはっきりしていなかった時代。そのうち会社に戻ろうかなと思っていました」
W杯後、欧州から届いたオファー
岡田と西野氏はともに1990年に現役を退き、古巣で指導者の道を歩み始めた。監督に就いたのは西野氏が先だった。ユース代表監督をへて、U-23代表を率いた1996年のアトランタ五輪でブラジルを撃破。指揮官として名を馳せた1年とちょっと後に、フル代表コーチだった岡田に青天の霹靂が訪れた。
フランスワールドカップ出場をかけた、アジア最終予選の真っ只中で解任された加茂周監督の後任を託された。覚悟を決めた41歳の青年監督は悲願の予選突破へと導いて日本中を熱狂させたが、初めて臨んだヒノキ舞台ではアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカにすべて1点差で負けた。
帰国後に代表監督を退任し、フリーになった岡田のもとに、今度はクラブ監督のオファーが舞い込んできた。しかも、指揮を執る舞台は日本ではなくヨーロッパだったと明かす。
「何か代理人が無理やり話をもってくるわけよ。あっちにも行って、こっちにも行ってという感じで。昔はよく『海外には行かないの』と言われたけど、僕が最初にワールドカップに出た後であっても、ヨーロッパのセカンドグループの国の2部リーグのクラブとか。そういうところからは、代理人を通して話があった。そのレベルの話しかなかった」
ヨーロッパのセカンドグループとなると、おそらくはオランダやベルギー、ポルトガルあたりだったのか。しかし、岡田はオファーに断りを入れ、解説者を半年ほど務めた後にJ2へ降格したコンサドーレ札幌の監督に就任。2年目でJ1昇格へ、3年目でJ1残留へと導いた。
横浜F・マリノスの監督に就任した2003シーズンには、ファースト、セカンド両ステージを完全制覇。翌2004シーズンには浦和レッズとのチャンピオンシップを制して連覇を達成し、2007年の年末には病魔に倒れたイビチャ・オシム監督の後任として再び日本代表を率いた。
再びアジア最終予選を勝ち抜くも、ワールドカップイヤーの2010年に入ってチームは大不振に陥り、南アフリカ大会の開幕を前に解任論が飛び交った。戦術と中心選手の大胆な変更を介して息を吹き返した日本代表は下馬評を鮮やかに覆し、2大会2度目の決勝トーナメント進出を果たした。
S級ライセンス返上。「限界がわかっているから」
毀誉褒貶の激しい指導者人生を送ってきた岡田は2012年に、中国スーパーリーグの杭州緑城足球俱楽部の監督として初めて海外での挑戦をスタートさせる。しかし、契約を残したまま2シーズンで退団すると、当面は監督には就かないと表明した。その意味は2014年11月に明らかになる。
J1から数えて5部にあたる四国リーグを戦っていたFC今治を運営する、株式会社今治.夢スポーツの株式の51%を取得。代表取締役会長として経営者の道を歩み始め、昨年3月にはトップカテゴリーの監督を務めるのに必要な、公認S級コーチライセンスの更新を自らの意思で見送った。
「ないよ。自分で自分の限界がわかっているから」
掲額式典およびレセプション後の囲み取材で、再び指導者に戻る可能性を問われた岡田は言下に否定している。戦いの舞台をJFLに上げて3年目。優勝を目指す現場とは別の視線で、J3を飛び越えてJ2を戦える環境作りに奔走する日々が充実しているのだろう。岡田はこんな言葉も紡いでいる。
「経営の方が忙しくて、楽しくて、なかなか現場がイメージできなくなっているので」
こう語った数時間後には、日本の森保一監督を含めて、4人の日本人指揮官が幕を開けたばかりのアジア2次予選でさい配を振るった。敵地でミャンマーを下した森保ジャパンに続いて、西野監督に率いられるタイも敵地でインドネシア代表に3-0で快勝。2戦目にして初勝利をあげた。
レイソル、アルビレックス新潟、ヴァンフォーレ甲府を率いた経験をもつ45歳の吉田達磨監督が今年5月に就任したシンガポール代表も、ホームでパレスチナ代表に2-1で勝利。シンガポールのクラブで現役を終え、指導者に転身した吉田監督は嬉しい初勝利をあげた。
そして、昨夏から元日本代表の33歳の本田圭佑が実質的な監督を務めるカンボジア代表は、ホームでバーレーン代表と対峙。ともに無得点のまま時間が経過していったなかで、78分に決勝点となる先制ゴールを奪われた。香港代表と引き分けた初戦に続いて、まだ勝ち星をあげていない。
アジアでは「ちょっと認められ始めた」
消化試合数にバラつきがあるものの、9月シリーズを終えた段階でそれぞれ勝ち点4をあげているシンガポールがグループD、タイがグループGの首位に立っている。まだ気が早い話だが、2次予選を勝ち抜いた12ヶ国が2つのグループに分かれる3次予選で、日本で顔を合わせる可能性もある。
海外の代表チームを率いる日本人監督は、以前は日本サッカー協会のアジア貢献事業で派遣されるケースがほとんどだった。たとえば上田栄治氏は日本女子代表の監督に就任する前にマカオ代表を率い、清水エスパルスやFC岐阜の監督を務めた行徳浩二氏はブータン、ネパール両代表を指揮した。
ひるがえって、無所属ながら現役選手との二足の草鞋を履く本田の特異なケースを含めて、3人の日本人が海外でさい配を振るう状況は、岡田の目にはどのように映っているのか。1998年のフランス大会当時の日本代表の立ち位置を踏まえながら、指導者の海外進出に関して持論を語ってくれた。
「日本代表が(ワールドカップの舞台で)勝つことによって、あの国の指導者なのか、となっていく。ようやくアジアでは、ちょっと認められ始めた。これが世界へ指導者として打って出ていって、認められるようになるには、やっぱり日本代表がもう少し上がっていかないといけない」
岡田の理論では、日本代表の強さと日本人指導者に対する評価は比例していく。初めて臨んだワールドカップで3戦全敗を喫し、インパクトを残せなかったフランス大会直後は、必然的に日本人指導者のステータスも低かった。ゆえに納得できるオファーが、岡田のもとに届かなかった。
もっとも、韓国との共同開催だった2002年大会を含めて、日本はフランス後のすべてのワールドカップに出場。ドイツ大会やブラジル大会ではグループリーグ敗退の辛酸をなめさせられながらも、岡田が率いた南アフリカ大会と、西野監督が急きょ指揮を執った昨夏のロシア大会で結果を残した。
「過渡期」を戦う日本人指導者
とりわけ決勝トーナメント1回戦で優勝候補の一角だったベルギー代表に敗れながら、一時は2点のリードを奪ったロシア大会は、世界の目を日本へ向けさせるうえでターニングポイントになった。選手の海外移籍が一気に増えたと同時に、少しずつながら指導者も階段を上がり始めた。岡田が続ける。
「あとは、たとえば長谷部のように、本当にレジェンドのような活躍をした選手が世界の舞台で指導者になっていくと、次の代に移っていくんじゃないかな。いまはひとつの過渡期として、日本サッカー界は順調にステップアップしていると思います」
日本代表がワールドカップに連続して出場し、結果を残し続けていけば――。3大会連続でキャプテンを務め、積み重ねた濃密な経験をプレーに反映させている長谷部誠(フランフルト)に代表される、現役を退いた後も日本国内の枠にはおさまらない名選手が輩出されていくだろう。
もちろん、一足飛びには未来は語れない。岡田が言う「過渡期」を戦う指導者たちは来たる10月シリーズで、7月の組み合わせ抽選時にポッド1だった強豪を含めた難敵とそれぞれ対戦する。
・10月10日
イラン代表 vs カンボジア代表
サウジアラビア代表 vs シンガポール代表
タイ代表 vs コンゴ代表(※国際親善試合)
・10月15日
カンボジア代表 vs イラク代表
シンガポール代表 vs ウズベキスタン代表
タイ代表 vs UAE(アラブ首長国連邦)代表
森保ジャパンも10日にモンゴル代表と埼玉スタジアムで、15日にはタジキスタン代表と敵地ドゥシャンベでそれぞれ対戦する。代表メンバーが3日に発表されるなかで、前半戦における正念場を迎えるカンボジア、シンガポール、そしてタイの戦いも気になるシリーズとなりそうだ。(文中一部敬称略)
(取材・文:藤江直人)
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