ロス・ガラクティコスの終焉
2000年 ルイス・フィーゴ 6200万ユーロ
2001年 ジネディーヌ・ジダン 7750万ユーロ
2002年 ロナウド 4600万ユーロ
フロレンティーノ・ペレス会長は毎年1人のスーパースターを加えてきた。すでにラウルとモリエンテスがいるのだからロナウドよりDFを獲ったほうがいいという、もっともな意見は一蹴された。
「世界一のFWを獲得できるのに、DFを優先する理由がない」
当時のスポーツディレクター、ホルヘ・バルダーノはそう話している。本心かどうかは疑わしい。ただ、ペレス会長の意向はそうだったろう。「ジダンたちとパボンたち」は補強戦略というより経営戦略が実体だったとはいえ、会長が守備の選手を軽く見ていることは明らかだった。それはすぐにチーム崩壊の引き金になるのだが、ロナウドが来た時点ではまだ顕在化していない。ビセンテ・デルボスケ監督がいた。
南へ向いて座るだけで国が治まる――古代中国で理想とされた統治者の姿だが、デルボスケはこれと似ていたかもしれない。
表面上は何もしていない。当時、新設されたトレーニングセンターでの練習は有料公開されていた。レアル・マドリーTVでも生中継されていたが、見ている人はいなかったと思う。輪になってパスを回す「ロンド」が延々と続き、その半分も輪のそばで見守るデルボスケの大きな背中で隠されていた。たぶん世界一退屈な映像。もちろんデルボスケは何もしていない。
何もしないデルボスケ
試合のテクニカルエリアでも同じ姿勢だ。しかし、レアルはこの監督の下でCLを獲り、リーグ優勝を成し遂げている。ロナウドが来た2002/03シーズンはCL連覇こそ逃したものの、リーグとUEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップを獲った。だが、デルボスケは解任され、ロス・ガラクティコスはそれ以後タイトルを獲れなくなった。
ロナウドの次のターゲットはディビッド・ベッカム。フィーゴとポジションが被る選手を獲得する必要があったとは思えないが、それよりも問題はクロード・マケレレの給料が上がらないことだった。マケレレは、ある意味デルボスケと並ぶチームに不可欠の存在だったといえる。スターばかりのチームで重要なのは、スターよりもスターを支える人材なのだ。
ペレスは「パボン」で十分と考えていたが、実際にはスターたち以上の力量が必要だった。しかし、その地味な役割は軽視されていて、マケレレの増額要求は却下され、熱烈なオファーが届いていたチェルシーへ去る。メンタル面でチームを支えていたフェルナンド・イエロ、フェルナンド・モリエンテスも我慢の限界とばかり去って行った。この状況にはじめて警告を発したデルボスケは会長とぶつかり、南面する天子もいなくなった。
ベッカムの加入とタイトルを逃すレアル
ベッカムが来た03/04シーズン、表面上はロス・ガラクティコスの最盛期である。ライバルのバルセロナもベッカム獲得を公約にしていたが、代わりにやってきたのは貴公子然とした英国人ではなくファンキーなブラジル人だ(結果的にロナウジーニョの獲得はバルサにとって大成功だったが)。
レアルは意気揚々とアジア・ツアーを行う。東京ドームには、レアルの公開練習を見るためだけに大観衆が詰めかけた。映画も製作し、ユニフォームも飛ぶように売れた。だが、アジア・ツアーは疲れるばかりで全くシーズンへの準備になっていない。国内リーグ4位、CLはベスト8で敗退してカルロス・ケイロス監督は1シーズンで解任となる。
続く04/05シーズンはホセ・アントニオ・カマチョ監督でスタートするが、シーズン途中で辞任してガルシア・レモンが継承。しかしこちらも解任され、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督が就任する。
ルシェンブルゴは05/06も指揮を執ったが、結局のところ何のタイトルも獲れなかった。途中更迭でロペス・カロ監督に代わり、無冠の責任をとって2月にはペレス会長が辞任。ベッカムに続くビッグスターはマイケル・オーウェン(04年)、ロビーニョ(05年)だったが、とくにインパクトは残せなかった。
ベルナベウを模倣したペレス
スーパースターのコレクションは、第一期黄金時代の模倣である。
エースストライカーから弁護士、会長となったサンチャゴ・ベルナベウを真似たのだ。ベルナベウ会長はバルセロナとの争奪戦の末にアルフレード・ディステファノを獲得し、そこから毎年大型補強を敢行。ラシン・サンタンデールからフランシスコ・ヘントを獲得、ディステファノのパートナーだったエクトル・リアルをミリョナリオス(コロンビア)から呼び寄せた。
第1回チャンピオンズカップ決勝の相手だったランス(フランス)からはレイモン・コパを引き抜く。ディステファノとプレースタイルが被っていたが、お構いなし。補強組ではホセ・サンタマリアだけがDFで、そのときはFWが飽和状態だった。05年にセルヒオ・ラモスを獲得したのに似ているかもしれない。最後はディステファノと丸かぶりのフェレンツ・プスカシュまで獲っている。
しかし攻撃偏重のアンバランスでありながら、レアルはチャンピオンズカップ5連覇を成し遂げた。
80年代の「キンタ・デル・ブイトレ」の時代も黄金期だ。ヨハン・クライフ監督が率いたバルサがリーグ4連覇で「ドリームチーム」と呼ばれたが、禿げ鷲隊は5連覇。しかも、クラブ生え抜きが主力という点で最初の黄金期とは対照的だった。そういう時代もありながら、ペレスが目指したのはより偉大なベルナベウのほうだったわけだ。
攻撃のスターを並べる大艦巨砲主義は豪華絢爛、威力もあった。しかし、ロナウド、ラウル、ジダン、フィーゴにロベルト・カルロスが加担する攻撃陣が、誰も守らないのでは守備はもたない。誰かが適宜に、“マケレレ”になる必要があった。
スター全員が常に身を粉にして働くことはないが、1人か2人は“マケレレ”になる。それがぎりぎりのバランスだった。デルボスケ監督は、そのバランスを注意深く見守った。スターは全部使わなければいけない。放っておいても点はとれるが、問題は守備だ。しかし、できるのは見守ることだけ。いつ崩壊しても不思議ではなかった。
しかし、デルボスケが小首を傾げて佇んでいるかぎりは、まだぎりぎりで大丈夫なのだ。南面の天子は坑道のカナリアでもあった。
ベッカムが来てマケレレが去り、デルボスケはついに警報を鳴らしたが無視された。デルボスケという唯一の安全装置まで外したのだから、無事でいられるはずがなかった。
(文:西部謙司)
【了】