リケルメ、フォルランを擁したビジャレアル
今思い返しても、あれは夢か幻だったのではないかと思う。
2006年4月、スペインはバレンシア郊外にある、ビジャレアルという、当時は人口46000人とスタジアムにすっぽりおさまってしまうくらいの、小さな町での出来事だ。
この年のチャンピオンズリーグ(CL)に初出場を果たしたビジャレアルは、するすると勝ち上がり、ベスト4に進出、全盛期のティエリ・アンリを擁し、アーセン・ベンゲル監督率いるアーセナルと対戦することになった。
ロンドンでの第1レグは0-1で惜敗したが、地元サポーターは楽観していた。「ホームで2点とればいい。なんていっても、ウチにはリケルメとフォルランがいるんだから」。
そう、当時のビジャレアルには、あのフアン・ロマン・リケルメがいた。バルセロナで不遇な時期を過ごしたあと、レンタルでビジャレアルに入団し、レンタル期間終了後も本契約をオファーしてくれたこのクラブを彼は愛し、その当時は駅前にタバコ屋ひとつなかったこの町に、アルゼンチンから親兄弟を呼び寄せて腰をすえていた。
3日前のリーグ戦、レアル・ソシエダ戦では、マヌエル・ペジェグリーニ監督は、リケルメや、ディエゴ・フォルランら、主力を温存した。
そしてアーセナル戦当日の4月25日。日中は、恐ろしいほどのどかに時が過ぎた。何かが始まりそうな気配が漂いだしたのは5時をまわった頃から。ロンドンから押し寄せた赤いサポーター軍団は「アーセナル!アーセナル!」の大合唱。しかし、それをかき消したのは、ビジャレアルの、イエロー・サブマリン軍団だった。
試合開始前はお祭り騒ぎ
ビジャレアルの愛称は、スペイン語で『スブマリーノ・アマリロ』、イエローサブマリンという。1969年、ビジャレアルが3部昇格を達成した試合で、スタジアムでオーケストラが当時流行っていたビートルズのイエロー・サブマリンを奏でたのが由来であると、地元の人が教えてくれた。
山車に乗せられた巨大な黄色い潜水艦を先頭に、大人も子供も、お年寄りも、町中のひとたちがスタジアムまでの道を大合唱しながら練り歩いていた。まるでお祭りだ。
真っ黄色に染まった町に選手たちを乗せたバスが入ってくると、イエロー・サブマリンが先導して、まわりをびっしりとサポ-ターが取り囲んだ。
そんな、熱気が最高潮に達した中で、試合は開始した。
猛然と攻めるビジャレアル。彼らには2ゴールが必要だった。リケルメと同じアルゼンチン代表のファン・パブロ・ソリンや、メキシコ代表のギジェルモ・フランコがゴールを狙ったが、相手GKにはじかれたり、惜しくもオフサイドだったり、なかなかスコアボードに得点は灯らなかった。
選手たちの必死な思いは痛いほど伝わってきた。しかし時間がなくなるにつれてアーセナルはより守備に比重をかけ、ゴールをこじ開けるのはどんどん難しくなっていくようだった。
特別だった春の一日
そんな、サポーターたちが祈るような思いでピッチを見つめていた89分、ホセ・マリが、エリア内でガエル・クリシーに倒されて、PKをゲットした。両こぶしを突き上げるビジャレアルサポーター。会場が歓声で震える。
ペナルティスポットに立ったのは、もちろんリケルメ。彼の表情は、落ち着き払っていた。
しかし。リケルメが蹴ったボールとまったく同じ方向に、GKレーマンも飛んでいた。VIP席で、ビジャレアルのロジェ会長ががっくりと頭をたれたのがモニターに映しだされた。リケルメはその場に呆然としゃがみこみ、しばらく動かなかった。
観客席も一瞬、静まりかえった。しかしまたすぐに、歌い始めた。イエロー・サブマリンの歌を。
翌朝は、またいつもの、ちょっと埃っぽい静かな町に戻っていた。
スタジアムの前にある、『バール・ラ・トリビュナ』でコーヒーをすすっていたら、前日の熱狂など、実際にはなかった夢の中の出来事のように思えてきた。でも、カウンターに置かれた新聞の表紙には、『Gracias! Villarreal』という見出しとともに、リケルメがしゃがみこむ写真があった。
前日会見で、リケルメはこう言った。
「ここで負けたら、人々は誰も、僕たちのことを覚えていないでしょう。人は勝者しか記憶に残さない。敗者のことは、忘れてしまう」
でも、そんなことはない。この日のことを、ビジャレアルのこの年のCLでの勇姿を、覚えている人は大勢いる。
それほど、あの春の一日は、特別だったのだから。
(文:小川由紀子)
【了】