ミランの10番が背負う痛烈なプレッシャー
81試合出場で9ゴール10アシスト、カップ戦11試合を含めれば11ゴール14アシスト。本田圭佑が、ミランに所属した2014年1月から2017年5月までの3年半の間に残した成績である。
実績だけを見ると、それなりの数字であったということは分かる。この国で戦っていた過去の日本人選手と比較すると、むしろ良い部類に入るだろう。名門中の名門に所属し、最後の1年はともかく主力になれた時期もあった。放出の憂き目に合わず契約を全うできたのなら、それは一つの成果だとも言える。
しかし、イタリアでは厳しい評価を受けた。彼がミランというクラブで10番を背負うという選択をしたからだ。
サッカーにおいて、10番は攻撃を操るエースを象徴する。ビッグクラブであるミランにおいて過去を振り返れば、デヤン・サビチェビッチにズボルミール・ボバン、そしてクラレンス・セードルフと錚々たる面々だ。
それを背負うということは、つまり自分がチームの勝利に絶対的な責任を負うということを意味する。そして本田は、それを選んだ。2014年1月10日、サン・シーロのレセプションルームで行われた入団会見。「自信がないと10番は要求しないし、駄目だった時の反動も全て理解している」と本田は言い切った。
最初の時点で、自分からハードルを上げてしまった新戦力は、その通りに凡庸なパフォーマンスを許されない立場に追い込まれる。ファンやメディアの目は厳しく、それは退団の日まで続いた。欧州のビッグクラブに所属することの意味を、痛烈なまでに示すプレッシャー。
その中で本田はどう苦闘して、爪痕を残そうとしたのか。その厳しさは、日本人のサッカーファンにも実体験として伝えられることになった。
イタリアでは受け入れられない“タメ”を作るプレー
オーナーのシルビオ・ベルルスコーニの莫大な資金力にものを言わせ、戦力を補強するのが当たり前となっていたミラン。しかし彼らは2000年代後半から、赤字累積による経営難に直面していた。そのためにアンドリー・シェフチェンコを、カカーを、ズラタン・イブラヒモビッチを売り飛ばすことになる。
その一方で、新戦力に金は掛けられない。移籍市場を知り尽くすアドリアーノ・ガッリアーニ副会長は手練手管を駆使して補強を進めたが、年々ごまかしが効かなくなっていった。
その末に、CSKAモスクワから獲得されたのが本田だった。しかしそれも、結局のところ契約切れで移籍金フリーとなるところまで待たないといけなかったのである。つまり彼が加入した時点で「ガッリアーニよ、またか」という空気がファンの間に出来上がっていた。それもあって、本田に対する懐疑論は最初から強かったのである。
一方でプレーをしだすと、ファンは本田のあるプレーに不満の声をあげた。中盤で味方の上がりを待ち、ボールをキープするという点だ。
これは彼のみならず、名波浩や中村俊輔など先の日本人MFもセリエAで苦労を覚えたところだ。中盤で多くボールに触り、長短のパス交換を演出して、組織としてボールポゼッションを高める。日本人のMFには当たり前のように染み付いた習慣が、ここでは違和感の元となる。それは守備専従の地方クラブだけではなく、ミランのようなビッグクラブでもしかりだった。
ボールを奪い、縦に速く、少ない手数でゴールまで到達することをファンは求める。単独で突破してシュートまで持っていけるタレントもいるから、必ずしも”タメ”を作ることは必要ではないのだ。
しかし本田は遅らせる。そこでプレスが掛かり、ロストに繋がることも度々あった。そもそも敏捷性に欠けていたことから、メディアやファンの間では「カタツムリのように遅い」などとも揶揄されてしまった。
物議を醸したイタリアサッカーへの批判
一方で本田も、チームの戦術やイタリアの現実に合わせる努力はしていた。2014/15シーズン、監督に就任したフィリッポ・インザーギは、カウンターサッカーを展開させた。本田にあてがったのは右ウイング。といってもサイドに開いて幅を取る役割ではなく、チャンスには中へと絞る役割だ。本田はこれをこなし、7試合で6得点を挙げた。
もっとも、ここから先はイタリアサッカーのさらに厳しい現実が牙を剥く。戦術はすぐに対策されてしまったのである。組み立てを断ち切られ、本田がゴール前に詰めるまでに満足にボールが回らない。一方で本田がボールを持てばスペースを固められ、特に右サイドからゴール方向に左足を向ける動きは徹底して警戒されるようになった。
本田は苦闘した。前線ではパワーを活かして、センターフォワードのように空中戦で競り合ってボールを落とす動きも黙々とこなす。カウンターに失敗すれば、自力でチャンスを作ろうとする。
しかしそれは、ファンが嫌いな『攻撃を遅らせて味方の上がりを待つ』というアレだ。周りと噛み合わない動きは「幽霊」と地元メディアに揶揄され、サン・シーロのファンは本田がボールタッチをするごとにブーイングを送るようになった。
「チームを変えたかった」。本田はこういうことを口にするようになる。ボールポゼッション志向に舵を取れない状況について「ストラクチャー(構造)を変える必要がある」とクラブへ不満を述べ、イタリアサッカーの現場まで批判をして物議を醸した。
ただファンやメディアが、さらにはチームが彼に要求したのは個としての打開力。2015/16シーズンに指揮をとったシニシャ・ミハイロビッチ監督は、しばらく4-3-1-2のトップ下として本田を使うも、フィニッシュワークでの物足りなさを理由に見限らざるを得なくなった。
本来のポジションと、期待された仕事について失格を言い渡された。「15年の冬に放出か」という噂も出るようになるが、しかし本田は爪痕を残すことを諦めなかった。プロとして黙々とトレーニングをこなしていくうちに、転機が訪れる。
本田の本質を高く評価したミハイロヴィッチ監督
ミハイロヴィッチ監督は4-3-1-2も諦めてウイングを使った4-4-2か4-3-3を併用していくのだが、右ウイングに起用されたアレッシオ・チェルチが守備の要求を満たさなかった。チームのパスミスの多さにも業を煮やした指揮官はチェルチを切り、第17節で本田を右MFとして使うことにした。
実に12試合ぶりの先発出場。本田はその試合で、非常に良いパフォーマンスを見せた。守備の時にはきっちり右サイドを埋めながら、指揮官の注文に応えて的確にパスを交換。
「先に行っておく。今日のようなプレーをこれからもしてくれれば、本田はずっと試合に出続けることになる」
ミハイロヴィッチは試合後に断言し、本田はその通りに主力として定着した。
起用されたのは本来のトップ下ではなかったし、守備もやらされた。しかしながら逆説的に、攻撃では本田が本来やりたかったプレーをできるようになった。組織がコンパクトになり、選手間の距離が縮まる。本田が正確なパスを出せば、味方も信頼してパスを付けるようになったのだ。
「10番としてのプレーではなくても、それ以上に複雑な仕事を彼はやってくれている。誤った姿勢で(練習や試合に)臨むこともない。彼のような選手がいることは重要だ」
ミハイロヴィッチ監督は、本田の本質を評価したのだ。カターニア時代に森本貴幸を主力から切った時のように、容赦なく厳しい決断を取る。その人物から練習を通して評価を再び勝ち取ったということは、並大抵のことではなかったのである。
もっともミハイロヴィッチ監督は、ベルルスコーニ名誉会長との確執で解任の憂き目にあう。翌シーズンに就任したヴィンチェンツォ・モンテッラ監督は異なる戦術を取り、攻守の切り替えが素早く突破力があるスソを重用。今度はライバルに下降の時は訪れず、9試合の出場にとどまった本田は契約満了で退団をすることになった。
三浦知良から本田圭佑、そして冨安健洋へ
ブーイングを受け続けていた本田だったが、そのこと自体はポジティブに受け止めていたようである。コリエレ・デロ・スポルトのインタビューに、彼はこんな言葉も残していた。
「選手の立場から見れば、人々が日常でサッカーに入れ込んでいる様がいいと思います。ここでは生きる目的というか、宗教みたいなものになっている。日本ではそうじゃない。あっちではサッカーを始めその他一般のスポーツはホビーです。ただ僕は、僕が悪いプレーをした時に(訳注:叱咤の)声を上げてくれるようなファンがいて欲しいと思う。無視されるよりはずっといいです」
ファンの入れ込みようは、選手には時に辛辣で厳しい。ただ、ここをくぐり抜けたサッカー選手は磨かれ、強くなる。近年は凋落の一途を辿り続けてきたイタリアサッカーだが、この文化が存在する限りカルチョの世界は特別なものであり続けるのだ。
三浦知良がセリエAに挑戦してから25年。日本人選手たちはほぼ例外なく厳しく揉まれたが、その経験は続く者への糧として活かされていた。これまでの記憶を紐解くと、そんな流れの存在が読み取れる。
ビッグクラブに選手を送り出した流れが一旦途切れたのち、ベルギーで実績を挙げ”本物”として評価を受けた冨安健洋がボローニャへと移籍した。ここから、セリエAの日本人選手挑戦はどんな系譜を辿るのだろうか。
(取材・文:神尾光臣【イタリア】)
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