モウリーニョとの冷めきった関係
ベルギー第3の都市ヘントで育ったケビン・デ・ブルイネは、ジュニア時代からKAAヘントの下部組織でプレー。14歳のときにゲンクのユースチームに移籍すると、順調にカテゴリーを上げていき、2009年5月9日、17歳でトップチームデビューを果たした。
2009/10シーズンにリーグ戦、プレーオフ合わせて35試合に出場してポジションを獲得。翌シーズンは5得点16アシスト、11/12シーズンは8得点14アシストを記録したデ・ブルイネは12年夏、720万ユーロ(約8億6,000万円 ※『transfermarkt』を参照、日本円は現在のレートで計算)の移籍金でチェルシーへと移籍した。
チェルシー加入後すぐにブレーメンに期限付き移籍で放出されると、14位と低迷したチームの中で、10得点9アシストと獅子奮迅の活躍を見せる。13/14シーズンはチェルシーに復帰したが、ジョゼ・モウリーニョ監督の下でリーグ戦での出場は3試合のみに終わり、半年でヴォルフスブルクに放出された。
デ・ブルイネは後に、モウリーニョとの関係について「僕は彼と2回しか話したことがない」と話し、「常にお互いの間には一定の距離があった」とその冷めきった関係性について語っている。
しかし、2度目のドイツ移籍で、デ・ブルイネは再び輝く。約1年半で20得点37アシストと、圧倒的な成績を残し、15年8月、6,840万ユーロ(約81億4,000万円)という当時のクラブレコードとなる移籍金でマンチェスター・シティに加入した。
そのプレースタイルは?
シティ加入2年目にペップ・グアルディオラがシティの指揮官に就任。ここでデ・ブルイネの才能が一気に花開くことになる。攻撃的センスが爆発し、2季連続でリーグ最多アシストを記録した。
ペップが標榜するサッカーにおいて、デ・ブルイネの存在はかかせない。ベルギーやドイツではトップ下やウイングでプレーすることの多かったが、ペップの下では4-3-3のインサイドハーフでプレー。同じくトップ下やウイングを本職としていたダビド・シルバと「8番」のポジションで共存している。
彼の特徴の一つはその正確で鋭いキックだ。ビルドアップでは味方DFからボールを受けると、鋭いロングボールでサイドチェンジを狙い、一気にチャンスを作り出す。バイタルエリアでボールを受けると機を見て豪快なシュートを両足から繰り出すことができる。
アタッキングサードでは3トップの後ろのから、相手DFの裏を突くスルーパスを狙う。相手DFの動きの逆手にとり、味方の動きを生かす。周囲の機微をも見逃さない認知力に秀でている。
シティではD・シルバや、ベルナルド・シルバ、イルカイ・ギュンドアンが同じポジションを務めているが、彼らにはない特徴をデ・ブルイネは発揮している。
日本人の脳裏に焼き付いている14秒
そして日本人にとって最も印象に残っているのはカウンターだろう。もはや言うまでもないかもしれないが、ロシアワールドカップ・ラウンド16の日本対ベルギー。2-2で迎えたアディショナルタイムに起きた「ロストフの14秒」である。
CKのボールをキャッチしたティボー・クルトワからのスローを自陣で受けたデ・ブルイネは、スプリントしながらドリブルで駆け上がり、右サイドをスプリントするトーマス・ムニエにパスを送った。最後はグラウンダーのクロスをナセル・シャドリがゴールに押し込んだ。
デ・ブルイネはワールドカップ直前の17/18シーズン、シティで公式戦52試合に出場、うち48試合に先発し、ベルギー代表でも日本戦までに12試合に出場。このシーズン実に65試合目の後半アディショナルタイムでも衰えることのない、デ・ブルイネのフィジカルが生み出した決勝ゴールだった。
シティがプレミアリーグ連覇と国内3冠を達成した18/19シーズン、開幕直後に右ひざを痛めて約2ヶ月の離脱を余儀なくされたデ・ブルイネは、11月に左ひざ靭帯を損傷。その後も負傷による離脱を繰り返し、リーグ戦の出場は19試合に留まった。
前シーズンの勤続疲労も否定できないが、今シーズンに期する思いは人一倍強いだろう。プレミアリーグ3連覇、そして悲願のチャンピオンズリーグ制覇を狙うシティの命運を、デ・ブルイネは握っていると言える。
(文・編集部)
【了】