「低俗な発想に基づくスタイル」
気分は高揚していた……はずだ。
いまから29年も前の話である。手書きの原稿をFAXで送信し、携帯電話もほとんど普及していない。AKBや坂道グループはもちろん存在せず、Jリーグ発足以前の話である。克明に思い出すことは難しい。
しかし、専門誌の編集部に在籍していた当時の筆者は、ワールドカップの取材メンバーに選ばれ、喜びを隠しきれなかった。しかも数人の先輩を差し置いて、である。いやいや、選ばれて当然だ。記者として、編集者として、群を抜いていたのだから……。フッ、偉そうに、罰が当たるぞ。
1980年代後期から90年代前期のフットボールは、セリエAが中心だった。緻密なゲームプランをもとに失点のリスクを排除し、試合内容よりも結果を求めていく。とくにACミラン、インテル・ミラノ、ユベントスの≪北部三強≫は、スポーツが持っていてしかるべきエンターテインメント性を二の次に置き、ズデネク・ゼマン(攻撃的なフットボールでラツィオ、フォッジャなどを率いた名将)に辛辣な批判を浴びせられてもいた。
「勝てばいいという低俗な発想に基づくスタイル。選手もサポーターも楽しくない」
イタリア北部三強対マラドーナ
そしてもうひとり、結果を求めすぎるゲームプランをパフォーマンスで全否定するスーパースターが存在していた。ディエゴ・アルマンド・マラドーナ──。南部の強豪ナポリをキャプテンとしてけん引し、信じられないようなアイデアと技術で称賛、尊敬、憧憬を集め、その一方で憎悪と嫌悪の対象にもなっていた。
ナポレターノはマラドーナを愛した。彼の一挙手一投足はフットボールの魅力に満ちあふれ、エンターテイメントとして成立していたからだ。しかし当時もいまも、カルチョの中心は北部である。
「北が稼いで南が浪費する」という言い伝えもあるように、イタリアという国が南部を見下している。まして北部三強が、レフェリーを牛耳っていたとの情報もまことしやかに伝わっていた。したがってマラドーナは南部の大衆にとってスーパーヒーロー、政治悪と闘う正義の味方でもあったのだ。
90年の大会事務局長を務めたルカ・ディ・モンテツェーモロも北部出身であり、なおかつ『フィアット』の役員だった。イタリア随一の大手自動車会社がユベントスのスポンサーであることは言うまでもない。イタリアワールドカップも北部対マラドーナの構図は崩れず、政治的な匂いは否定できなかった。
1勝1分1敗で一次リーグを通過したマラドーナ擁するアルゼンチンは、決勝トーナメント1回戦でブラジルを破り、準々決勝でユーゴスラビアを、準決勝では地元イタリアをともにPK戦の末に退け、ファイナリストの座を得た。
アンフェアなジャッジ
対戦相手は西ドイツである。チームの中心はローター・マテウス、ユルゲン・クリンスマン、アンドレアス・ブレーメ。彼らはインテルの中枢でもあった。そう、決勝でも南北戦争は続き、なおかつマラドーナとアルゼンチンは、ホストカントリーの希望をものの見事に砕いている。憎悪と嫌悪のボルテージはネガティブな形で高揚し、アルゼンチン国歌は暴力的なブーイングにかき消された。
アブノーマルなアウェー感に、アルゼンチン代表の表情が強張っている。しかし、マラドーナだけは敵愾心を隠さず、ドイツ国歌に合わせて「××××」。スペイン語のFワードを口ずさんでいた。この男、どこまでも強気である。
決勝の地オリンピコは異常なムードに支配されていた。明らかに西ドイツ寄りの風が吹いている。同じようなファウルでもなぜか彼らは見逃され、アルゼンチンにはイエローカードを提示される。内心はともかく、平静を装うマラドーナが「落ち着け、落ち着くんだ」と諭しても、アンフェアなジャッジに興奮を抑えきれない選手も少なくなかった。
65分、ダミアン・ペドロ・モンソンが背後からの危険なタックルで退場処分。87分、グスタボ・デソッティに2枚目のイエローが提示された。マイナスふたりのハンデ。そして終了3分前、マラドーナにも警告……。
マラドーナなりの存在感
いや、準決勝が終了した時点で、アルゼンチンは甚大なダメージを負わされていた。クラウディオ・カニーヒア、セルヒオ・バティスタ、フリオ・ホルヘ・オラルティコエチェア、リカルド・ジュスティの4選手が、累積警告や退場処分のために決勝進出の扉を閉ざされていたのである。
もちろん、イエローに相当するラフプレーもあった。しかし、大会を通じてアルゼンチンには厳しすぎるジャッジが多く、決勝でもマラドーナを強引に止めた西ドイツに、レフェリーは驚くほど寛容だった。
決勝はエキサンティングな攻防が少なく、西ドイツがブレーメのPKを守り切って4大会ぶりに世界の頂点に立った。しかし、大会の主役は世界チャンピオンでなければ、地元の期待に応えて得点王に輝いたサルヴァトーレ・スキラッチでもない。
政治的なプレッシャーにも屈せず懸命に闘い、チームを決勝にまで導いたマラドーナこそが、90年大会のベストプレーヤーだった。チーム全体のレベルがほんの少し高かったら、決勝にカニーヒアとバティスタがいれば……。
数多くの苦難に見舞われながら、対戦相手のえげつないタックルに傷つきながら、マラドーナはマラドーナなりに存在感を誇示してみせた。ワールドカップ連覇こそならなかったが、スーパースターの面目躍如。この男、やはりレベルが違う。
(文・粕谷秀樹)
【了】