フットボールと共に育った幼年時代
「バレンシアの生家は、カジェ・オチョにある」
薄暮の弱々しい日射しが町を覆い始めてもなお、靴の裏には亜熱帯のぬくもりが残っていた。町角の露天商にバレンシアについて尋ねると、そんな答えが返ってきたのである。
カジェ・オチョとは、Calle8という番地のことだ。
南米エクアドル北東部、コロンビアとの国境に位置する人口約20万人のラゴ・アグリオ市は豊富な石油埋蔵量を誇り、住民の多くが石油関連会社で働いている。郊外には剥き出しの石油パイプ・ラインと掘削中の痕跡が至るところに散見された。その向こうにはアマゾンへ連なる深い森が横たわっている。アントニオ・バレンシアは1985年8月4日にこの町で生まれた。
「バレンシアの生家は地元では有名なのですか?」
「みんな知ってるよ。地元のテレビや新聞によく取り上げられていたから。スタジアムの隣だからすぐに分かる。ここから10分程度だ」
地図を書いてもらうまでもなく、スタジアムはすぐに発見できた。町の中心部のやや外れに「エスタディオ・カルロス・ベルナサ」というスタジアムがあった。近くからラテン音楽特有の腹に響くような大音量が聞こえている。カジェ・オチョは、スタジアムの南側、高さ2メートルほどの外壁に面した細い路地のことだった。
日曜日だからだろう、路上には千鳥足の地元住民たちが、ビール瓶を片手にラテン音楽に合わせてステップを踏んでいた。
のちに、「カジェ・オチョは危険な場所だ」と釘を刺した人がいたが、そんなことは知らずに私が歩いて行くと、色の白い40代後半とおぼしき痩身の男が訝しげな表情で声をかけてきた。
「おい中国人、何かを探しているのか?」
南米の人は東洋人を見るとたいてい「チノ(中国人)」と声をかけてくる。
「アントニオ・バレンシアの生家を探しています。日本から来ました」
男の表情が緩んだ。手を差し出してきた。同時に顎をしゃくって見せた。
「ここだよ。ここがバレンシアの生家。でも、増改築しているから雰囲気は当時と変わっている。彼の両親と兄弟はみんな首都のキトに引っ越したから、今は叔母が住んでいるよ」
バレンシアの生家は、路上の突き当たりの家から数えて3番目、緑と鼠色を基調にした2階建てのコンクリート造りの建物だった。家の目の前がスタジアムである。フットボーラーたちの熱気とどよめきを体感しながら育った。否が応でもボールを蹴らざるを得ない環境だ。
「あなたはバレンシアに会ったことがあるのですか?」
男は酒臭い息を振りまきながら得意げな表情を見せた。
「会ったことがあるのかって? 俺は二軒隣の住人だ。生まれたばかりのバレンシアを抱いたこともある」
そう言って赤子を抱くような仕草を見せると、男はビール瓶を高々と持ち上げて嬉しそうな声を上げた。
「日本からバレンシアのファンがやってきたなんて嬉しいぜ。うちで飲んでいけよ」
亜熱帯の路上が原点
6人兄弟の下から2番目のバレンシアは、6歳のときから家計を助けるために廃品回収業に従事していた。ビール瓶やコカ・コーラの瓶を集めた。バレンシア少年は亜熱帯の路上をくまなく歩き、ときには近郊の村まで足を伸ばした。
一定の量に達するとケースに詰めて、問屋を目指して再び猛暑の中を歩いていく。ビール瓶の一ケースはだいたい10キロ前後である。後年、プレミアリーグの猛者を相手に右サイドから敵陣内を翻弄していく脚力は、このとき培われたのかもしれない。
この町の路上には、当時内戦中だった隣国コロンビアから着の身着のままで逃げてきた難民が座り込んでいたはずだ。南米大陸最大左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍」(2017年6月に武装解除)の蹂躙によって逃散を余儀なくされたのである。
ラゴ・アグリオ市は、コロンビアからの難民がもっとも多い場所として知られた。顔には煤けた跡が残り、薄汚い衣服からは異臭が放たれる。バレンシア少年は毎日のようにそんな光景を目撃していただろう。2008年3月1日の未明には、コロンビア政府軍がエクアドル領内に無断で越境して前出の「コロンビア革命軍」の基地を空爆。その空爆の場所、つまりゲリラの長年の基地こそが、ラゴ・アグリオ市の郊外だったのだ。
バレンシア少年は戦火の入口で育ち、石油の匂いをたっぷり嗅ぎ、難民たちを眺めながらお腹を空かせていた。「私たち家族は、ご飯を食べるための方法を常にさがしていた」と彼はエクアドル最大手紙『エルコメルシオ』のインタビューに答えている。
貧しくて危険と隣り合わせの少年にとって、唯一の発露がフットボールだった。
バレンシアは10歳のときに、すでに兄がプレーしていた地元の少年サッカークラブ「カリベ・ジュニオール」に入団した。練習場は家の目の前である。ペンペン草がそこら中に生えて、石ころが転がる当時の「エスタディオ・カルロス・ベルナサ」には母親も姿を見せた。
バレンシアの両親は家の軒先で揚げパンのようなものを作って販売していた。「コルビチェーロ」と呼ばれ、中には牛肉の細切れと魚の肉、それにプラタノと呼ばれる生では食べられないバナナを練り潰したものがぎっしとりと詰まっている。一日の売れ残りがそのままアントニオ家の食事になった。ひとつ50センターボ(約48円)で販売した。エクアドルの通貨はドルである。
売れ行きがいいのは、試合や練習がある日だ。
当時も今も、ラゴ・アグリオ市にはエクアドル・サッカーリーグの一部リーグはもとより二部リーグもない。地域リーグと少年サッカーだけであるが、土日には何かしらの試合が行われていた。
母親は家の軒先で旦那が作った「コルビチェーロ」を携えてスタジアムの観客席を回った。透明のビニール袋に詰めた飲料水も売った。試合には大人たちが掛け金を興じることがあった。そんなところにも目を付けて、母はビールも売った。バレンシアも自分の試合がないときには母と共に観客に売り歩いた。販売だけが目的ではなかった。釣り銭がないふりをして、差額分をポケットマネーにした。サッカーシューズが欲しかったのだ。
だが、いくら綺麗なサッカーシューズを買っても、廃品回収業に従事していると悪友ができる。年上の腕白少年たちと遊ぶ機会が増えた。良からぬ道に入り込み、身を持ち崩してしまうのではないかと家族は心配したが、杞憂に終わった。フットボールが彼を繋ぎ止めていた。
転機は16歳のときだった。「カリベ・ジュニオール」で頭角を現すと、エクアドル・サッカー一部リーグの名門「エル・ナシオナル」への入団試験を薦められて合格。18歳でトップデビューを果たしてレギュラーの座をつかむと、20歳のときにはエクアドル代表にも名を連ねた。2005年からスペインに渡りエクアドル代表の中核選手へと成長を遂げていったのである。
真面目だった少年時代
筆者に酒を飲んでいけと勧めたアントニオ家の隣人の名は、マルコ・ロドリゲスといった。石油の関連会社で働く47歳の色白の優男は、忙しなくビール瓶に口をつけている。家の軒先に置かれた二つのプラスチック製の白い椅子に座りながら、私たちはバレンシアの話に興じていた。
――それで、バレンシアはどんな子供でしたか?
「ウミルデ(真面目)だよ。内気でおどおどしたところもあったけど、とにかく真面目な子で、家族思いだった。家が貧しいからといって、ビール瓶を集めて家計を助けた。兄弟の中にはそれを嫌がっていた奴もいたけど、彼は愚痴ひとつこぼさず働いていた」
――彼の生家は建て替えて今は叔母が住んでいるということですが、外観は当時と似ていますか?
「今は綺麗になって二階建てだけど、当時は一階建てだった。色は鼠色のコンクリート造りだけど、ひび割れて、雨洩れもよくしていた。その家の前に机を出して、コンロを乗せて「コルビチェーロ」を作っていた。バレンシアだってよく作っていたよ。まあ、今じゃイングランドで金持ちになったから、そんなものは食べないだろうけど。とにかく貧しい家だった」
――バレンシアについて印象に残っていることは?
「とにかく真面目。兄弟の中には早くから酒に溺れちまった奴もいるけど、彼が酒を飲んでいるところは見たことがないね。この町の住人には黒人が多く、中には荒っぽい奴もいる。そんな環境からよくサッカー選手になったと思う」
それからしばらく雑談に興じているときだった。薄闇の中から中年の女性がすっと現れて、表情を緩ませながら音楽に合わせてステップを踏み始めた。バレンシアの叔母、マリ・モンターニョだった。私は立ち上がって来意を告げた。
――バレンシアの少年時代を知りたくて日本から来ました。
表情がさっと変わった。酔いが一気に冷めてしまったかのようだった。マリ・モンターニョは50代前半だろうか、丸顔の中に見せる涼しい目元が、心なしかバレンシアに似ている。
――バレンシアの少年時代について印象に残っていることはありますか?
「大人しくて真面目で家族思い。悪い噂なんてひとつもないわ」
怪しい呂律でそう呟くと、狂ったように踊り続けている仲間たちのほうへ寄っていった。
8ドルを払わなかった日
隣人のマルコ・ロドリゲスが思い出したように膝を叩いた。
「バレンシアが町を出るときの話を知っているか?」
そこでいったん言葉を切ると、彼は表情を崩して顔を近づけてきた。
「首都キトにある名門クラブ《エル・ナシオナル》に合格して引っ越すとき、彼はどうやってキトまで行ったと思う? 普通ならバスだろ。キトまでわずか8ドル(約770円)だ。だけど彼はバスで行かなかった。その8ドルを親に払ってもらうのが申し訳ないからと言って、夜にコカ・コーラの空瓶を乗せたトラックをつかまえてキトまで向かったんだよ。たった8ドルを親に払わすことさえためらう。それが、バレンシアという奴なんだ」
8ドルを払わなかった男は2009年に「アントニオは我々がずっと高く評価していた選手。彼のスピードと能力がチームに大きく貢献することを確信している」と当時のマンチェスター・ユナイテッド監督アレックス・ファーガソンから評価され推定26億円で赤い悪魔の軍団の一員となった。
1年目からレギュラーの座をつかむと、早くも期待に応えてリーグ戦9アシストをマーク。3年目にはチーム最多の13アシストを記録し、ファンと選手が選ぶクラブ年間最優秀賞をダブル受賞した。
南米アマゾンの入り口の路上で家計を助け、「コルビチェーロ」を食べて育ったバレンシアは、16歳で故郷をあとにした。コカ・コーラのトラックに8時間ほど揺られながら、どのような気持ちで首都へ向かったのだろう。地味で目立たなくて家族思いの少年は、いつの日かエクアドル代表の一員に名を連ねることを想像しただろうか。
あの日から、18年――。
コパ・アメリカのグループC第3節で日本代表はエクアドルと対戦する。ピッチの上には亜熱帯の香りを身にまとったこの男がいるはずだ。
※文中の為替レートは2013年5月時点(取材当時)のもの
(取材・文:北澤豊雄)
【了】