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96年フランス対ポルトガル。ジダンが引き起こした一瞬の静寂。時代の主役となった1プレーとは?【私が見た平成の名勝負(3)】

シリーズ:私が見た平成の名勝負 text by 西部謙司 photo by Getty Images

親善試合の世界チャンピオン

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フランスW杯に出場したフランス代表【写真:Getty Images】

 この予選では日本代表が終了寸前に被弾してイラクと引き分け、「ドーハの悲劇」と呼ばれたが、フランスの悲劇は連続して起こっている。あまりの迂闊さ、詰めの甘さに、同情するフランス人はおらず、総バッシングの中、ジェラール・ウリエ監督は辞任。コーチだったジャケが昇格したポストは針のむしろだったといえる。

 トラウマから抜け出すのに4つの勝利と1つのタイトルが必要だったわけだが、ファンは依然としてジャケもレ・ブルーも全く信用していない。「アミカル(親善試合)の世界チャンピオン」と揶揄されていた。

 エリック・カントナ、ジャン=ピエール・パパン、ダビド・ジノラを擁するチームの失敗は「事故」の一種で、米国へ行っていればベスト4には入れたのではないかという意見もあったが、日本から戻っての4連続ドローによって再び現実に引き戻されている。

 1994年8月17日、ユーロ予選のチェコ戦。0-2のビハインドを後半18分から出てきた初キャップの若者の2ゴールで引き分けに持ち込んだ。ここから4連続引き分けになるわけだが、ジネディーヌ・ジダンは数少ない光明だった。

 1995年1月25日、カントナが「カンフーキック事件」を起こす。エースでキャプテンだったカントナは、これ以降フランス代表に招集されていない。カムバックの噂は何度もあり、1998年ワールドカップ直前まで続いたが、ジャケ監督はついにカントナを呼ばなかった。

 ジャケは、カントナとジダンは共存できないと考えていたようだ。それだけでなく、きれいにバックアップを1人ずつ選出していた98年のワールドカップメンバーでも、ジダンのバックアップだけは選んでいない。優柔不断にみえた監督なのに、そこだけはやけにはっきりしていて腹を括っていた。

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